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  3. 第9回「自分が大事にしている曲と同じように、何かオリジナルな曲を一曲でも作ったことありますか? それを人生でやりなさい、ということ。僕は神戸元気村での7年半では、そういうことをずっとやってきた。」

第8回 「真実の自分になる」ということが、コーチングをはじめとして、私の全ての仕事でやっていることです。
いまでも環境問題で活躍している**さんという人がいるけど、彼は話しをするだけで何の行動もしてない。僕が彼に提供したデータで彼は講演活動をしていたけど、7年後に聞いたら、やっぱり同じデータを使って話しをしていた。毎日講演しているっていうのを彼は自慢していたけど・・・。それに彼は神戸の地震があったとき、結局神戸には入ってこなかった。僕も当時、彼と同じくらいの講演活動をしていたんだけど、全部キャンセルしたし、みんな分かってくれた。でも彼は「僕は講演がありますから」と・・・。それが彼の役割といえば役割と言えるかもしれないけど、結局何のシステムも彼は作れなかった。自分しかできない行動を思いついて欲しかった。

僕は、ピアニストやバイオリニストなど音楽をやっている友人が割と多い。そいつらにいつも言っているのが『人の作った曲を何百回やるんだ?』ということ。それと神戸元気村の時代は一緒の意味合い。僕はオリジナリティだけをやっていった。自分で作った楽曲だけを。それも一曲づつ丁寧に。

誰かが歌った歌に想い出があって、それを何百回も歌ってきた、誰かが作った歌を大事に歌ってきた。僕はそういう人間でも、そういう頭の持ち主ではないんです。自分が大事にしている曲と同じように、何かオリジナルな曲を一曲でも作ったことありますか? それを人生でやりなさい、ということ。僕は神戸元気村での7年半では、そういうことをずっとやってきた。『オリジナル』というのは大変重要な要素。

誰かが作った会社でやっていくのも楽しいでしょう。新橋あたりで飲むのも楽しいでしょう。でも僕は神戸の7年半で、小さいけどオリジナルの会社を作った、新しいシステムを考えたり作った。そんな感じです。
バウさんがご自身の人生を振り返ってみて、自分の人生の絶頂期はあそこだったな、と感じる時期はありますか?
僕の人生の絶頂期は死の直前だと思う。まだ体験したと言えない。それほど欲張りなんだろうね。これだけ体の免疫力も落ちてきているし、以前のようにはいかない。でも、死の直前、ロケットを噴射するようにバーンと行きそうやなぁというのがあるね。

なおちゃん、聞いているかどうか知らないけど、今「自分史、自叙伝を作ろう」というのを始めていて、昨日もタケちゃんとキヨという30代の若い人と会っていた。これまでやってきたことを30代の若いヤツに譲っていくというのをずっとやってるんだけど、この二人が南相馬の曹洞宗の住職に会いにいってくれてます。その住職が檀家さんの自分史を書き出そうと言ってくれて福島からスタートしています。
「自分史、自叙伝」が新しいプロジェクトになるんですか?
もうスタートしています。お墓という文化を変えたいと思っているんです。
お墓という文化を変えたいとは?
例えば、なおちゃんは広島生まれだけど、広島の友達に自分の先祖代々のお墓に連れていかれて「これは何さんのお墓です」と言われても、その人がどう生き、何を考え、何をやってきたか全く分からないし見つからない。お墓は残っていても、その人の孫やひ孫も全く分からない。だからお墓と同じ重要性で生きている間に自分史を書いてもらおうと。その運動を始めてる。それは宗教家でさえ変えていくであろうと思っているし。

南相馬で100人が自分史を書いてくれたら、その時代が読めてくる、村のことも読めてくる。東電には反対だったけど息子が就職して・・・とか、そういうことも書いてもらう。福島から始めて全国津々浦々、書いてくれる人を探していく。それが僕のライフワークだと思っている。なおちゃんも書いてね。
私の50年の人生なんて、そんなに面白くないから、これから面白くします!
死ぬまでに書いてな。
バウさんも今自叙伝を書かれているそうですが、その中に、人生のターニングポイントはありましたか?
この前見つかった。回りくどい話になるけど、本を書くにあたって、僕自身の記憶をどこまで遡れるかというのをずっとやっていった。そしたら3歳まで戻れた。その3歳のときのエピソードにタイトルをつけた。『富士山の布団』って。

何かというと、3歳のとき、親父が寝ている布団をみたら富士山みたいになってた。僕は足元からその山を登って上まで行って「あ~!」って言いながら親父のお腹のところに滑り落ちるのが好きだった。好きだったと思ってた。
その遊びを、なんで何度も繰り返したのかこの前考えとき、ようやく分かった。親父が笑ってた。親父を笑わせるために、自分はしんどいんだけど登ってゴロンゴロンと降りてた。その親父の笑顔を見たときが人生のターニングポイントだね。人を喜ばせよう、喜んでもらってその笑顔が自分の目の前に出てくる。それが好きだと思った瞬間。別に親父はそれでほめてくれたわけじゃないよ、ただニコニコ笑ってただけ。

なんで親父が富士山を作っていたか。親父は生まれたときから足が曲がっていた。それを僕は全然知らなかった、というより気がつかなかった。歩くときも足を引きずっていたのに曲がっていたことを意識していなかった。だから差別もなかった。自分の記憶をずっとたどっていった先に親父の笑顔があった。それもまっすぐにできない親父の足を使って。
その時がターニングポイントだね。

神戸のときも同じなんだわ。喜んでくれたからやっていただけで、有名になりたいからやっていたわけでもないし。

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