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第10回
福田 高規(ふくだ たかのり)
昭和9年1月、高知県に生まれる。昭和35年頃から十菱麟氏のグループと交流し、エドガー・ケイシー関係図書の出版活動をする。その後独立。国際鍼灸理療専門学校において治療法を学ぶ。現在は高田馬場の「福田高規治療院」のほか、名古屋の「エドガー・ケイシー健康会」にて定期的な講座を開催。ケイシーのリーディングを実生活に活かすべく活動をしている。

福田高規治療院:http://www.ishiki.jp/
福田先生とのご縁はもう20年も前。1992年にたま出版主催のツアーでバージニアビーチのAREに行ったとき以来ですが、今回インタビューをさせていただくにあたり、福田先生の個人的な歴史は何一つ知らないことに気づきました。そこでまず、福田先生はどういった子供時代を過ごされたのか、ケイシーとの出逢いはいつだったたのか、そのあたりからお話いただけますか?
最初に私の年齢を言いますと、もうすぐ80歳なんですよ。1934年生まれで終戦の時は小学校6年生でした。日本で初めてのエドガー・ケイシーの本『奇跡の人エドガー・ケイシー』が出たのが1959年、25歳の時です。

実は、ケイシーを日本に最初に紹介したのはこれよりもっと古く、生長の家の谷口雅春先生です。谷口雅春先生は宗教関係の翻訳をいっぱい出されていて、一番有名なのは『生命の実相』という20巻の本です。その後『真理』というシリーズが出て、その中に『カイシーの霊告』という一文がありました。Cayceという綴りをカイシーという日本語にしたんですね。

『カイシーの霊告』に辿り着く前の私のことを少しお話しますと、終戦が小学6年生の時。中学になったら、戦争に行ってた兵隊さんたちが学校に戻ってきたんです。だから同級生の中には年齢的に上の人がいっぱいいました。その中に服部君という3~4歳くらい年上の人がいて、その服部君は今でいう精神世界かぶれで、断食をやったり滝に打たれたりしてました。
服部君も戦争から戻ってきた方だったんですか。
そうです。でも戦後は何もすることがないし、日本がこれからどうなるのか分からない。それが私たちの関心のもとでした。服部-福田と出席番号も近いから掃除も他の当番も全部一緒、学校の登下校もずっと一緒。だから、その服部君といろんな話をしたんです。未来が見えない、どうしていいか分からない、そんな時代でしたから、私も彼と人生論を戦わせていたんです。今の中学生は人生論など語らないと思うけど、当時の中学生はそうだったんです。誰も彼も先が見えないわけですから。

先に私が上京してきて工場に勤め始めていたんだけど、彼も法政大学に受かって東京に出てきました。まだ私は未成年だったんだけど、高知の人間だから、毎晩お酒を喰らうんだよね。お酒を飲みながら朝まで人間とは何か、世界はどうなる、人生とは何かなんて話をしてたんです。その当時、私は唯物論者で世の中なんて偶然の連続だって思ってました。論戦を戦わせたら絶対私のほうが強いんです。
え?福田先生が唯物論者だったんですか?
そう。前世なんて知らないよという感じ。あちらは唯神論者。前世なんか全部知っているわけです。でもここが大切なところなんだけど、あるとき一言、服部君が酔っ払って言った言葉がある。「意志の力が無ければ人間何もできないよ」と。ハッと思った。そこから私は片っ端から宗教遍歴をしたんです。

当時、世田谷区の尾山台に住んでいたんだけど、田園調布の山のうえにカソリックの教会があって、その教会の大きな扉をバーンと開けて「牧師さーん」と大声で怒鳴って「ここで修行をしたい」と言ったんです。すると「私は牧師ではありません、神父です」から始まって「修行をするには親を捨て、子を捨て、名前を捨て」と言われた。そんなのダメですから、いろいろあって辿り着いたのが生長の家だったんです。生長の家で一生をかけてやるつもりだったのに『カイシーの霊告』に出会って「これは!」と感動してしまって・・・。
その『カイシーの霊告』は、どれくらいのページを割いてケイシーのことが書かれていたんですか? 1冊まるまるケイシーだったわけではないんですよね。
『真理』という10冊足らずののシリーズ本で、その霊界編の中のほんの一部分。人間が死んだらこうなりますよ、ということが書いてあったんです。ケイシーのリーディングと共に。それがケイシーのリーディングが日本に紹介された一番はじめ。

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