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  3. 第16回「臓器や組織、細胞、ウィルスからのメッセージを通訳してお伝えする」というのが、私の診療の特色といえるでしょうか。

第16回
でも、結局なぜか誰も手を上げないまま時は過ぎていき、これはもう私がやるしかないなと覚悟を決めるような流れになっていったんです。またその時期に起きた、運命を感じるようないくつかのドラマも、私が神之木クリニックを開業することに対して背中を押してくれたような気がします。
どんなドラマがあったんでしょうか。
まず一つ目からお話します。私が大学病院をやめて開業すると決めたのが1995年のことでしたが、その年は阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件が起き、またちょうど戦後50周年を迎えるという、日本にとって大きな節目にあたるような年でした。そんななか、私はある社会教育団体の研修会に参加して、「どうしたら戦争をやめられるのか」というテーマについて参加者の方々と皆で真剣に討論を交わしたことがありました。そこでの私自身の気付きは、「身近な争いやわずかな言葉の行き違いが引き金となり、それが拡大して戦争へと発展してしまうのではないか。もしそうであるなら、まずは身近な争いをなくしていくことが先決だろう」ということ。するとそんな気付きがあった矢先に、まさに私にとって格好の喧嘩相手が目の前に現れたのです。
山本先生が喧嘩を?
ええ、そうなんですよ(笑)。それは私が当時、本格的に始動したばかりの「日本ホリスティック医学協会」の事務局長をやっていた時のことでした。同じ医療業界に籍を置くある方、仮にAさんとしておきますが、突然彼から「お前みたいに無能な人間が事務局長なんかやっていたら協会がつぶれてしまう。すぐに辞めろ」という脅迫的な文章が、夜中の3時にFAXで送られてくるようになったんです。毎晩毎晩、延々と続く嫌がらせに、だんだん生きた心地がしなくなりまして。恐怖と疲れで精神的にも参っていたのでしょう。私はAさんを激しく憎むようになり、「殺したい」とさえ思うようになっていったんですね。それで、さすがにこの状態を続けるのはよくないと思い、Aさんのことも事情もよく理解してくださる先輩たちに相談することにしたのです。するとある方は「すぐに警察に突き出すべきだ。その人のしていることは犯罪行為なんだから」と言いました。
山本先生は差出人が誰なのか分かっていらしたんですね。
はい、分かっていました。ですから今まで送られてきた証拠の文書とともに、Aさんを警察に突き出すのは簡単なことでした。でも、ここでふと一拍置いて冷静に考え直してみようと思ったんですね。そして、今までの経緯を思い返しながら自分の心の内を観察してみたところ、様々な気付きが湧き上がってきたのです。

人間というのは、恨み辛みを抱えた結果、相手を殺したいという気持ちにまで思い至ることがあるものなんだ。今回の出来事は私にとって、そういう人間の醜い感情をリアルに味わうという、一つの貴重な経験だったのではないか。だとしたら、この殺したいという気持ちを感謝に変えてみたらどうだろう?……という具合にです。そんな気付きを得た私は、すぐさま心を込めてその『Aさんの美点50箇条』を書き連ね、彼にFAXしてみたんです。
それはすごい! Aさんは想定外の事態にさぞかし驚かれたことでしょうね。
ええ、そうでしょうね。そして私にも驚くようなことが起こったんです。というのはその翌日に、今度は何とAさんから『山本忍氏の美点50箇条』という文書が送られてきたんですよ。そして、その日を境にFAX攻撃がぴたりと治まったんです。
すご~い! 売られた喧嘩に対して愛を返された山本先生の勝利ですね(拍手)。まあ勝ち負けの話ではないですけれど(笑)。
そうですね(笑)。それでさらに不思議だったのが、ちょうどその数日後に神之木クリニックの院長にならないかというオファーをいただいたことでした。問題が解決した直後のタイミングだったこともあり、まさに思いがけないご褒美をもらったような気がしましたね。そう考えると今回の一連の出来事は、神之木クリニックに行く前に「自分の中にある不要なものを綺麗に浄化することができるかどうか?」という、天からのお試しだったのではないかと。自分の中で全てが腑に落ちたんです。
なるほど。もし全てが天から与えられたお試しのドラマだったとすれば、そのAさんは山本先生にとっての菩薩様だったともいえますね。
ええ。悪役を買って出てくれた、いわば私の分身でもあったのかもしれません。それで、話にはまだ続きがありまして。FAX事件が終わってからほどなくして、2人で腹を割って話す機会を得たんです。その時に、Aさんが私に嫌がらせを始めるようになった理由を聞いてみたんですね。するとAさんは、私が何気なく発した言葉に引っかかったことがきっかけだったと仰いました。つまり、もとはといえば私の方に原因があったんです。私はそんな簡単なことにも気付かずに、人を殺したいとさえ思ってしまったということに我ながら心底驚きました、同時に、やはり戦争というのは、こうした人と人とのちょっとした行き違いから起きるものなんじゃないかと、また改めて思ったわけです。少々極端な話かもしれませんが。
先にお話しいただいた研修会の「いかにして戦争をなくしていくか」というテーマについて、身をもって理解されたということですね。つまり愛をもって解決を図られた山本先生は、世界の平和に少し貢献されたのかもしれません。一人一人がそんな風に実践していければいいのでしょうが、個人レベルとなるとこれがなかなか……。
難しいものですよね (笑)。まあそういうわけでFAX事件は私にとって、神之木クリニックに導かれる必然を感じさせてくれた出来事でしたね。そんなドラマが実はもう1つありまして。

それは同じ年の8月26日のことでした。戦後50周年を記念する式典が富士山麓で開催されたのですが、沖縄で採火された聖火が全国リレーされて最終ゴールの富士山に届いた日でした。私はそのイベントに救護班の一員として参加していたんですね。うだるような炎天下のなか私は現地で行う医療のための様々な準備をしていたんですが、聖火が到着し、その聖火を灯すというリハーサルが始まってすぐに私に突然一本の電話が入ったんです。その内容は「山本先生の家が燃えています」という衝撃的なものでした。当時すでに母は他界していましたし、父は胃がんの末期にあって帯津三敬病院に入院していました。妻と二人暮らしでしたが、妻もちょうど外出中で、ご近所の方など1人も怪我人がでなかったのが、不幸中の幸いだったといえるでしょうか。

許可を得てイベントの途中ですぐに帰宅すると、家は半焼でしたが住める状態ではありませんでした。人気のないところから出た不審火として警察は扱いましたが、おそらく放火だったのでしょう。後日、重い気持ちで事件の経緯を病床にいる父に報告しに行きました。すると父は意外にも、怒るわけでも悲しむわけでもなく「富士山に聖火が灯った瞬間と、火事になった時刻にどれくらいの時間差があったのか?」と不思議なことを言い出したのです。

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