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  3. 第16回「臓器や組織、細胞、ウィルスからのメッセージを通訳してお伝えする」というのが、私の診療の特色といえるでしょうか。

第16回
父はその時すでに全身に黄疸が出ており余命いくばくもないという状態でしたが、頭はしっかりしていたんですよ。それで、おかしなことを言うものだなと思いながらも二つの出来事について振り返ってみると、確かにどちらもほぼ同時刻に起きていた、ということに気が付きました。そこでそう伝えると、父は涙を流しながら「自宅の火事は聖火の有難いもらい火だから、お赤飯を炊いてお祝いしなさい」と言い、それから1週間後に亡くなりました。結局その言葉が遺言となったのです。
普通の感覚では言えないような遺言ですね。お父様は死を目前にして、何かを悟られていたんでしょうか?
そうだったのかもしれませんね。そんな父の最期の言葉もあって、この時に家を燃やしてくれた火というのは「神之木クリニックに行く前に、自分の中にあるドロドロとしたものをちゃんと精算しておきなさい」という木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ=富士山を司る女神)の計らいによるものだったのかもしれないなと思ったのです。つまり、言ってみれば私は火の洗礼を受けたようなものであり、そうして初めて神聖なクリニックに勤める資格を得たということなのではないかと。
そうだとはいえ、あまりにも強烈な禊ではないですか。物理的なレベルでも魂のレベルでもクレンジングされてしまうという。普通ならなかなかそんな風には考えられません。
そうですね。でもそのおかげで、命以外に大事なものというのは何もないんだと気付いたんですね。妻も自分も元気でいられれば、それで十分だと。ですから実際、お金も思い出の品も一切何も持たずに、晴れ晴れとした気持ちで新天地に行くことになったわけです。
う~ん、そこまでいくと、もはや悟りの境地に達しているといってもいいかもしれません…。普通ならネガティブに捉えてしまうような出来事を、すべて魂の成長と進化の糧に変えてしまう山本先生にはただ尊敬するばかりです。

一旦、ここまでの話をまとめますと、山本先生は、Aさんとの和解と、ご自宅の火事という2つのドラマを経た後に、必然的な流れから神之木クリニックの開業に至ります。そこで兼ねてからの夢だったホリスティック医療をいよいよ本格的に始めることになったわけですよね。
はい、そうです。あくまでも現代医学をベースにしながらですが、開業当初からしばらくの間は波動測定器を導入して診療に使ったり、ホメオパシーを処方したりしていましたね。

このホメオパシーを取り入れたのにもまた面白い経緯がありまして。実は私をホメオパシーの世界に導いてくれたのは、当時クリニックの近所に住んでいた3歳の女の子、Bちゃんだったんですよ。彼女は私のホメオパシーの師匠ともいうべき存在でしてね。どういうことかお話しますね。

ある日、そのBちゃんのお母さんがクリニックにお土産を持って訪ねてきてくれたことがありました。帯津良一先生※5が立ち上げられた「日本ホメオパシー医学会」の2年めの研修コースに私はエントリーしていたのですが、第一回目の講座に私は欠席し、うまくスタートが切れずにいる状態でした。そんな時期にBちゃんが、「山本先生と看護師さんに、このレメディが必要だから渡してほしい」とお母さんに伝えたというのです。つまりお土産とは、Bちゃんが私たちのために選んでくれたホメオパシーのレメディだったんですが、3歳のBちゃんは、それ以前から普段から親戚の人たちにホメオパシーのレメディを選んでいたんです。

では、そのレメディとは一体どんなものだったのか? まず看護師さんに選んでくれたのは“ベラドンナ”で、急性の炎症や疾患組織の赤みなどに対応するというものでした。驚くことに、その看護婦さんはちょうどB型肝炎の注射針による針刺し事故の直後だったので、ベラドンナはまさに彼女にとって最適なレメディだったのです。Bちゃんはそんな事故が起きたことなど全く知らないのに、どうして的確にレメディを選ぶことができたのか、ただ不思議だとしか言いようがありませんでした。

私には、夜に“セピア”を、翌朝に“ラス・トックス”を飲んでくださいという指示をもらいました。

“セピア”とはイカの墨から作られたレメディで、子育てや家事で精根尽き果てたお母さんたちに助けになるレメディで、男性でも疲労やストレスで無気力になった症状によいとされています。その当時の私は、いわば“燃え尽き症候群”にかかっていたようなところがあったものですから、これもまたぴったりのレメディだったわけです。それから“ラス・トックス”はツタウルシが素材で、かぶれなどの皮膚炎や、関節炎や四十肩に効果的です。また「忙しくしていれば自分の本質を見なくてすむ」「不安で落ち着きがなくなる」というような仕草も記載されています。こうしたことは全て、Bちゃんから指示を出された後に本を読んで理解した内容であり、どれもなるほどと腑に落ちるものでした。

そして、その2つのレメディを飲んで、セピアは母からの、ラス・トックスは父からのプレゼントだということに気づいたのです。「墨と炭」同じ音を持つ漢字は同じ意味を包含していることが多いですが、「あなたのなかの黒くドロドロしたものは、炭のもつやさしい熱で灰になってそこから再び蘇ることができるのですよ」というメッセージが、セピアから感じました。ラス・トックスからは、「肩肘張らずにやりなさい。あなたがここへ来るのを待っていましたよ」というメッセージが聞こえてくるようで、扉を向こう側から開いてくれた父なる存在を感じたのです。

こうして私は3歳のBちゃんに導かれるようにして、ホメオパシーの学びの道へと入っていきました。

また面白いことにBちゃんは、お母さんが検索しているパソコンの画面を一緒に見ていた時に、突然ある人物の写真を指差し、「私はこの人の奥さんだったの」と言ったことがあったそうなんです。その人物とは、何とホメオパシーの開祖、ハーネマンだったのです。ハーネマンは80歳の時に35歳のパリジェンヌと二度目の結婚をしたんですが、その奥さんというのがBちゃんにそっくりだったんですよ。正確にいうとBちゃんのお母さんに似ていたのですが、Bちゃんもいずれ大きくなったらお母さんの顔に似てくるでしょうからね。

※5 帯津良一(おびつ りょういち)……1961年 東京大学医学部卒業。東京大学第三外科助手などを経て、1982年帯津三敬病院開設。現在は名誉院長。西洋医学に、中医学やホメオパシーなどの代替療法を取り入れ、ホリスティック医学の確立を目指している。著書に「粋な生き方 病気も不安も逃げていくこだわらない日々の心得」(幻冬舎ルネッサンス)、鳴海周平氏との共著「医者いらずになる1分間健康法」 (ワニブックスPLUS新書)など多数。
不思議すぎるエピソードですねぇ。

リュクサンブール公園
(画像:ウィキペディアより)
それにもう一つ不思議だったのは、まだ私がホメオパシーを学び始める前の頃のこと。ある晩に咳が止まらなくなって何事だろうと思っていたら、「絵を描きなさい」という声が聞こえてきたんです。絵を描くなんて中学生以来だなと思いながらも、何か絵の題材になるようなものはないかと本棚を探しているうちに、ふとフランスの旅をテーマにした本が目に留まったんです。そこで、何気なくその本にあったパリ市内のリュクサンブール公園の図を選んでスケッチをすると、その日はどうにか落ち着いて無事に床につくことが出来ました。

それから5年後にフランスに行く機会ができ、その頃はもうホメオパシーを学んでいましたが、かつて絵に描いたリュクサンブール公園に迷わず向かいました。公園の入口でマロニエの木が「お帰り」と迎えてくれて、園内にある3本の木を夢中になって日が暮れるまでスケッチしていました。面白かったのが帰国してからのことでした。

日本ホメオパシー医学協会の由井寅子さんが書かれたハーネマンの伝記を読んでいた時に、一つの箇所に目が留まったんですね。それは、ハーネマンが二度目の奥さんと結婚した後に、パリの街の一角で診療所を開いたというくだりでした。実は奇しくもその場所というのが、目の前にリュクサンブール公園が広がるエリアにあったというのです。この符号には驚きました。ですから、私はもしかすると過去世でハーネマンの奥さんから、植物の声を聴くための手ほどきを受けていて、今世でも直接ホメオパシーの指導を受けたのではないかと。まあどこまで本当なのかは分からない話ですけれども(笑)。
面白いですね~。そういう符号を受け止めるような感受性をお持ちの山本先生だからこそ、不思議なことにたくさん出会われるんでしょうか。でもそういったホメオパシーや波動機器をある時点から手放されたんだとか?
ええ、そうなんです。開業以来、波動測定とホメオパシーが診療に大きな位置を占めていましたが、2004年、40代半ばの頃に「アントロポゾフィー医学」※6に出会いまして、それ以降はこれ一本に絞って診療していくという決断をしたものですから。それまでは残りの人生をホメオパシーと波動測定に全て捧げてもいいかなとさえ思っていたんですけれどね。でも、この道で行こうと決めた瞬間に、耳元ではっきりと天使のGOサインともいえる声が聞こえたのは不思議でした。そして、天使というのは一瞬たりとも自分を見放さずに見守ってくれているんだなと感激しましたね。

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