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  3. 一般の方々が何かの仕事をしているように、行者は神仏への祈りを仕事にしているといういわば祈りのプロでもあります。

第20回
自宅で神仏にお祈りをしようとしても、家に神棚を備えていない家庭は多いと思います。そういう場合にはどのようにお祈りをしたらいいですか?
別に神棚にこだわることはありません。家の中の高い場所にスペースを設けて、そこにお札を立てて祈ってもいいですし、寝る前や起きた直後にお布団の中で経文を一巻あげるということでもいいんです。とにかく神仏に気持ちを向ける時間を持つということが大事。また、自宅に限らず職場や車の中で神様のお名前を唱えるなど、基本的にどこで祈っても構わないんですよ。その祈りが神仏にとっては何より嬉しいお供物になるんです。
八百万の神々がいるなかで、自分が信仰する対象をどのようにして選んだらいいんでしょうか。
神社やお寺にいったとき、『何だか心が落ち着く』とか『心惹かれる』とかいった場所があったら、そこにまつられている神様や仏様とご縁があるのかもしれません。ですから、その神仏のことを好きになり、お名前を呼んだりご真言を唱えたりしていると、ご加護がいただけるようになりますよ。好きな神様というのは自分の状態やタイミングによっても変わってきますが、それも自然体に任せていればいいでしょう。いつも自分の好きな神様の存在を身近に感じて『ありがとうございます』という感謝の気持ちを忘れないような生活を心がけること。それが神様との良いお付き合いの仕方ではないかと思います。
そうして神様とのお付き合いが深まってくると、もうエクスタシーといいますか、甘美としかいえないエネルギーを享受できるようなこともありますよ。私など、だからご神事がやめられない、というところもありますね(笑)。
神事をすることでエクスタシーを感じるんですか? まるで想像がつかないんですが……。
神との交流が始まると、日常生活では決して得られないような高揚感を得ることができるんです。たとえば、神様に手を合わせていると、神のエネルギーが自分の身体を駆け抜けていく……。その感覚は、まさにこの世の最高の快楽だと思いますね。
そんな感覚を感じられるようになるためには、それ相応に感受性の高い身体が必要なのではないですか?
もともと人は神と一体となれる身体をもっていますから、その感覚を呼び覚ませば誰もが神のエネルギーを感受できます。そのためには、まず身体を浄化すること。都会で生きていると環境汚染や電磁波、化学物質や添加物などに侵され、どんどん感覚が鈍くなっていますから。大切なのは自分を鈍らせているものを取り去り、内なる野生の勘を取り戻すこと。野生の勘の先に第六感はあります。野生的に躍動すればするほど、本来魂が持っている力を取り戻し、神のエネルギーやメッセージを感受して自然体で生きることができるようになります。そういうわけで、修験の行者が山に入るのは、自然の中で自分を洗ってもらうためでもあるんです。でも、今生まれてきている子どもたちの中には、都会の中にいても当たり前に第六感を使っている子もいるようですね。
身体を浄化する方法の一つには、たとえば菜食にするとか添加物を含まない食物を選ぶとか、食への配慮も必要なのかなと思ってしまいます。でも、蛇の倉の行者さんは皆さん、お肉もインスタント食品やスナック菓子も召し上がられてますよね(笑)。食については皆さんどうお考えなんでしょうか。
蛇の倉の行者たちは山を開いた先生から、『鳥でも魚でも動物は皆、巣を自分たちで作る。唯一人間だけが他の人に作ってもらう。万物の霊長として生きるなら、あなた方も身の回りのことは自分たちで整えなさい』と言われています。ですから、皆が住む家はもちろん神様の御座所まで自分たちで建てるため、とくに男性は日中、激しい土方仕事をしているんですね。となると、体力気力をキープするためにもやはりお肉が必要なんです。神様は必要なものをお与えになります。ライオンの前にはシマウマやインパルを与えますよね。命の連鎖の中で与えられたものは有難いと思っていただく。そうして生かしていただく代わりに、万物万象の育みとなるような祈りをする。それが万物の霊長としての人間の役割だと先生は仰っています。

食材については、確かに添加物や保存料など余計なものが入っていない、厳選されたものを選んだ方がいいのでしょう。けれど、食べる人数が多いので、全てにおいて気を配るというのは経済的に難しい。僻地の山中では食材の選択肢も限られてしまいます。
砂漠や山岳地帯を何百キロも走り続けるという苛酷なマラソンがあるんですが、そのマラソンのトップアスリートの一人は、厳格な菜食主義の人なんです。私としては、菜食の行者が出現して、肉体労働と共に自分の霊的な高まりがどんな感じに変化するのか、試してみてもらいたいです(笑)。
そうですね、どんな感覚になるのか興味がありますね。でも反対に、もともと菜食の人が蛇の倉に住むようになったら、何でも食べるようになるかもしれませんよ(笑)。
皆さん断食はされるんですか?
行者の中には、断食を行として自分に課する人もいるとは思います。ですが、食べることは身体の中にいる神様への食でもありますし、食べることも行の1つととらえているため、基本的に行者が断食をすることはありません。とはいえ、食べること、食べないことを律することができるのも行者の本分です。たとえば食糧が無くなってオニギリが1つしかない時、自分は行者だから食べなくても大丈夫だと人様にそのオニギリを差し出せる。そういうコントロールが出来るのもまた行者だと思います。私はセラピストですから、体調への変化をみたり実際に体調管理をしたりするために、月に1度は4日間の断食を行っていたこともありますけどね。
神様というのはもっと厳しくて近寄りがたい存在なのかなと思いきや、まつられる場所にもこだわらないし、食を改める必要もないという。意外と大らかで身近な存在なのでしょうか。
私は神様が自分からかけ離れたところにいるというよりは、もっと生活に密着してくださっているような近しい存在だと思っています。まあ、素っ裸で手を合わせた時にはさすがに怒られましたけれど(笑)。とにかく大事なのは神様への感謝や敬意、慕う気持ち。礼儀作法も大切ではありますが、それ以前に神様は人間の心を見ていますから。神様にとって人間は皆、自分の分け御魂であり子どもです。その子どもたちが、この世に生まれてきたことを楽しんでくれることが何より嬉しいようですよ。そして、自分らしく生きながら、与えられた役割を気持ちよく全うしようとしていく人を、ことのほか可愛いと思ってくださるように思います。

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