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  3. 第11回「世界の反対側にいる人、10人でも20人でも、私がここでひまし油湿布すると良くなるんだから。ホントだよ。」

第10回
ケイシーリーディングを日本で初めて紹介したのは生長の家だったんですね。そして、そこにいた福田青年はケイシーに夢中になってしまった・・・。
もの凄く。圧倒的に惹かれました。私はどこに行っても、トップになるんですね。つまり『どこ行っても、福田のことを知らなければモグリ』みたいになるんです。生長の家でも「福田のことを知らなければモグリ」と言われるくらい熱心にやっていました。それが『カイシーの霊告』を読んで生長の家を辞めてしまったんです。その後、十菱麟さんとの出会いがありました。

私は十菱さんも生長の家の人だったということは知らず、神田の古本屋さんを巡っているときに十菱麟さんがご自分で作った出版社、英瑞カンパニーから出されていたAZという本を見つけて「あ、こういう人がいるんだ」とすぐに訪ねていったんです。
それまで大きな会社で技術屋としてそれなりの仕事を任されていたんですが、それを全部辞めて、おたくで仕事をしたいと。それでAZカンパニーに就職したんです。霞ヶ関書房から『奇蹟の人エドガー・ケイシーの生涯』が出版された頃です。インフォ出版からケイシーの『窓はひらかる』(*後年、たま出版から『転生の秘密』として出版されたもの)が出たのも1961年ですから、ケイシーの出版が競っているんですよね。
その頃にはケイシーの事は知っていましたから、ケイシーの本が出版された時にはもう私はケイシーの活動を始めちゃっていました。十菱さんと共に日本で一番最初、ケイシーの最先端での仕事をしていたんですね。十菱さんはその時すでにケイシーの仕事をしてましたし、アメリカにも行っていました。

ところで菜央子さんは、十菱さんとはお会いになったことありますか?
はい。お亡くなりになる数年前に奈良に訪ねていきました。私にとって十菱さんは伝説の方だったので、とっくにお亡くなりになられているとばかり思っていたんですが、まだご存命だと知ってすぐに会いに行きました。波乱と激動を巻き起こしながらの人生だったと伺っていますが、静かな余生を送られていらっしゃいました。もう目が悪くて翻訳はされていないということでしたが、分厚い英語の辞書が置いてあったのを憶えています。
福田先生がお会いになられた当時、十菱さんは具体的にどういう活動をされていたんですか?
ケイシーの翻訳をしたりして、一所懸命ケイシーを日本に広めましょうとやっていました。余談ですが、サイババさんのことも十菱さんが一所懸命広めていらっしゃったんです。サイババの本も翻訳されていました。それからサイババさんは日本に知られるようになったんです。
十菱さんは目のつけどころがいいんですね。スブド(SUBUD)もやっていらっしゃいましたよね。
スブドは私も熱心にやってました。スブドで福田の名前を知らなかったらモグリって言われるくらいにね。青年だったから、青年部長とかやってましたよ。ジナ・サーミナラさんには1962年においでいただいてます。その時、私はジナさんの鞄持ちやってました。
美輪明宏さんとジナ・サーミナラさんが並んで写っていた写真は見たことがあります。
それは2回目の来日の時の写真でしょう。2回目のときにサーミナラさんのお世話をしたのは、たま出版の韮沢さんです。

初来日のときは十菱さんとインフォ出版の招聘でした。インフォ出版の浜崎社長さんも当時、霊的な世界のことを世に出しましょうと一所懸命なさっていました。「窓はひらかる」もある翻訳者に頼んで翻訳してもらってました。
確か、その翻訳をされた多賀瑛さんは肺結核で出版後すぐにお亡くなりになられたんですよね。1961年前後というのは福田先生が27歳頃になりますよね。この頃、ケイシーのことを話題にできる仲間は何人くらいいらしたんですか?
スブドのグループや十菱さんが瞑想会などいろんな会をされていたんですが、私が知る限りでは10人前後じゃなかったでしょうか? でもジナさんを連れて京都に行ったときには、夜、10名くらいの方が集まってくれました。生長の家の会報などを通じて関心を持ってくれた人たちだったと思います。

私は生長の家をよく知っていましたから、1回目の来日のときには、生長の家の大講堂で大講演会もやりましたよ。転生の話も喜んでされましたよ。
皆さんの反応はいかがでしたか?
サーミナラさんは、立錐の余地なく詰めかけた人々から次から次へと質問攻めにあっていました。

はじめ、私は自分でケイシー関係の出版をやるつもりだったの。そこで、当時AREの会長だったヒュー・リン・ケイシーに手紙を出して、私が日本でケイシーの運動をやると宣言しました。すると会長は「まだ若いからもっと勉強をしてからね」と言ってきました。だから、ますますケイシーの勉強をしました。その頃、たま出版の瓜谷社長と連絡を取り合ったんです。瓜谷さんは私がケイシーにのめり込んでいるのを知っていて、講習会を開催して私の話をご夫婦で聞いて下さって、本を出さないかと。それで出した本が『人生を変える健康法』です。1984年のことです。
おっと。一気に1984年まで行きましたね。1970年代は何をされていらしたんですか?
1970年代はスブドを一所懸命やっていた時期ですね。十菱さんもスブドをやっていらしたから。その頃は英瑞カンパニーは辞めて車関係の仕事で忙しくしていました。でも結局ケイシー1本でやりたくて、スブドも止めました。実は、こんなふうに一所懸命にやって止めたの他にも色々あるんです。
福田先生の最終的な基準はやはりケイシーだったんですね。
そうですね。中学の頃から、人間とは何か、どう生きたらいいかというのが私のテーマでしたから、それを一貫して追及していたんですよ。生長の家もケイシーに出会って飛び出し、十菱さんと出会って、また十菱さんのところを飛び出し・・・。家出も2回しましたけど、飛び出るのが好きなんですね。

それに講習会などでいろんなご相談いただく中で、ひまし油湿布を勧めるといろんな病気が治っていく・・・。
その時はすでに福田治療院は開業されていらしたんですね。
私は39歳のときに治療の学校に入っています。私は学歴がないのであんまの学校しか入れなかったんですが、2年で免許を取りました。その9年後に『人生を変える健康法』が出たわけです。でもこの本、当たったんですよ。今でもたま出版の社員さんが、いらっしゃいますよ。この本の著者に会いたくて来ましたって。
今でも売れていますし・・・。テンプルでも、入門編としてお客さまに一番お勧めする本ですね。
お読みいただくと分かりますが、物質的なことを前面に出した本ではなく、霊的なことを主体として書いた本です。霊的な中にもひまし油湿布があり、オイルマッサージがある、食事療法がある。それが私の生き方です。

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