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  2. 21世紀に生きるエドガー・ケイシーの教え
  3. 第9回「自分が大事にしている曲と同じように、何かオリジナルな曲を一曲でも作ったことありますか? それを人生でやりなさい、ということ。僕は神戸元気村での7年半では、そういうことをずっとやってきた。」

第8回 「真実の自分になる」ということが、コーチングをはじめとして、私の全ての仕事でやっていることです。
最終的に元気村を畳まれたのはどういうきっかけだったんですか? 
止めたいと思っていたのはもう2週間目からだからね。その7年半の間でもやりたいことはたくさんあった。瞬間、瞬間にね。で、やったうちの1つが『心の分灯(ぶんとう)』。広島の原爆の残り火を人々に渡して歩くことだったし、『108の祈り』と名前をつけたけど、日本の100名山+8つの聖山を登って祈ること。僕が抜けてもいいように、わざと神戸元気村の活動を離れてやってみた。他にもいろいろあった。

福井の重油流出事故のときに日本海に行ったのも神戸元気村2年目のことだった。
お話にでた『心の分灯』について、まずお聞きしたいのですが、そもそも広島の原爆の残り火を持って日本各地を歩こうと思われたのは何故なんですか? 火を広島に持っていくのが目的なら、受け取ってそのまま広島に直行することも出来ましたよね。
最初の『何故大きく物事を考えられるのか』という質問と『何故歩くのか』というのは同じ意味合いだと思うけど、自分の存在価値をどこに見つけるかというのが僕の人生のテーマ。自分だけにしかできないオリジナリティはどこにあるか、それをいつでも考えている。瞬間的に。何かが起こったときに、他の人だったらこうやっていくだろう。でも自分はこうやっていく。その1つの行動が『歩く』であったわけ。福井の重油流出のときの『ヒシャクで一杯』というのも僕のオリジナルな行動。

人には出来ない、自分にしかできないことをやっていくと、少しのアンテナでも立てていけると思うんだわ。そうやっていると『自分たちにしか出来ないことがあるんだ!』と、人が集まってくる。
原爆の残り火を日本全国に分灯しながら歩いたと伺ったとき、バウさんという人はなんてロマンチストなんだろうと思いましたよ。
この話をすると長くなる・・・。

たしか地震から4年目の1月17日の早朝、地震が起こった時間頃だったと思う。神戸に入ってすぐに自分でテントを立てた場所に座って『もう僕は神戸から出たい』という宣言をしたんだ。でも周りは『いやいや、あんたはもう少し神戸にいないとあかん』という雰囲気。でもやっぱり神戸から出ると自分で決めた。

この自分で決めるというのが重要なんだけど、決めたとたん、頭の中に『ヒロシマ』という単語が出てきた。自分ではポカンとしてしまったんだけど、広島に行けば何か仕事がありそうな感じがあったから、とりあえず事務所に帰って1本目の電話を待った。そしたら谷崎テトラから電話があった。

テトラは放送作家をしている人なんだけど「テトラ、僕に何か教えたらいいなという引っかかりがあるやろ」と聞いた。テトラは「先に用件だけ話させて下さい」と用件を言って「さっきの話、僕には何のことかさっぱり分からないんですが」というから「最近何か心にひっかかっていることあるやろ」と、またテトラに聞いた。そしたら「それなら最近、長野県の松本で広島の原爆の残り火を見ました」と。それからは話がトントンと進んで、松本まで行って火をもらう日が決まり、メディアに集まってもらうようにした。

でもそのときには、その火をどうしたらいいかまだ分かっていなかった。記者会見で『今年は20世紀最後の年(2000年)だから、年末にはこの火を使っていろんなことをやってほしい』ということをメッセージにして、それで歩き始めた。

地理に詳しいとよく分かるんだけど、松本から甲府に出るのに塩尻の峠に出る。道路をずっと歩いていって峠を越えて諏訪大社のあたりだったかな、ちょうどロウソクの火が消えそうになったから、神社の脇の風のないところに行った。火は長細い提灯にして持っていたんだけど、その提灯の奥のほうから『帰りたい』という声が聞こえてきた。

そのとき僕は思わず泣いてしまった。何で泣いたかというと、メディアも集め、お寺で法要もしてもらって、全国から50人ほど友人も集まった。それなのに出発して翌日に火がもう『帰りたい』と言っている。それはないだろうとガッカリきて、それなら諏訪湖の温泉でも行こうと思ってもうちょっと歩いていたら、その意味が分かってきた。

広島の住職さんでいつも何かと手伝って下さる方がいて、その方に電話をして「広島の原爆の残り火が松本にあった。でもその火は広島ではなく星野村から来たものだということを昨日聞いた。その火が『帰りたい』と言っている。火が帰りたいのは松本でも星野村でもなく、広島じゃないかと思うんだけど調べてもらえるかな」と話をした。そしたらやっぱり広島には原爆の残り火はなかった。北海道まで歩いていくってもう言ってしまった後だったから、しょうがなしに札幌の道庁まで歩き、その後山口あたりまで戻ってきた。時々は自転車も使ったけど、火を希望者に移しながら山口まで行った。
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