1. トップページ
  2. 21世紀に生きるエドガー・ケイシーの教え
  3. 第9回「自分が大事にしている曲と同じように、何かオリジナルな曲を一曲でも作ったことありますか? それを人生でやりなさい、ということ。僕は神戸元気村での7年半では、そういうことをずっとやってきた。」

第8回 「真実の自分になる」ということが、コーチングをはじめとして、私の全ての仕事でやっていることです。
バウさんがされてきた中で、百名山に登られたというエピソードは個人的に好きです。百名山に登られた経緯など、話していただいていいですか? フロンガス撤廃の活動していく中で、地球のオゾン層を人間が破壊したことを地球に詫びたいと、日本の百名山の高さを足すとちょうどオゾン層のあたりに達することもあり『山に登っては地球に詫び、降りる』を繰り返したと伺っています。

*日本百名山
百名山を足しても32キロに足りなかったので、自分が知っている聖山を8つ加えて『108の祈り』というので始めた。それは神戸元気村をやっている頃のこと。本を書いたらお金がもらえた。びっくりした、本を書いたらお金がもらえるなんて思ってもなかったから。たぶん400万円くらいあったと思う。家に100万、元気村に100万、残りは好きに使うぞって宣言していたら、神戸のおばあちゃん連中が「若いうちに山に登りなさい!」と言い出した。

それまで僕はあまり山に興味がなかったんだけど、雪の少ない山から順番に百名山に登ろうと調べた。百名山を登りながら、人類の代表として地球に謝ろう、オゾン層にお詫びしようと。その年の2月から始めて9月20日頃までやったんだけど、結局八十八山で終わってしまった。

この間久しぶりに元スタッフのA君に会って思いっきり怒ったんだけど、その頃台湾で地震があった。ちょうど88番目の山が終わって、残りの主軸は北アルプスだった。日本海岸の親不知子不知(おやしらずこしらず)の標高0から登って上の縦走(じゅうそう)で稼いでいこうと思っていた。全部準備も出来て富山に移ろうと思った時、A君から電話があって「バウさん、台湾で地震がありました。僕、台湾に行きたいです」と。「事務所どうするの?」って聞いたら「バウさん、そんなの趣味でやっている時と違います。止めて下さい」と。僕がやっていることの意味をはき違えていたんだと思う。表向きには山が好きでたまらないからやっているということになっていたから。いろいろ説得したけど「じゃぁ、今日で元気村を辞めます」と台湾に行ってしまった。しょうがないから僕は登るのを止めた。それで八十八山で終わってしまった。
途中で終わってしまったにしても、ほんの数ヶ月の間に88もの山を頂上まで登るというのは、並大抵の体力ではできないと思うのですが、どんな感じで山に登られていたんですか?
登山口まで行ってそこで食料品だけ仕入れて寝て、目が覚めたら山に登る。その繰り返し。当時と同じ体力が今あるとして、また同じことをやりたいかというと、絶対にやりたくない。やる意味はもう終わった。当時、地球のことやオゾン層のことを考え続け、地球に謝りたい、そんな思いでいたのは僕だけだったと感じています。それだけでいいかなと。
オゾン層のことが出てきましたので、話が前後してしまいますが、神戸元気村の前、フロンガス撤廃を訴えて日本全国を行脚されるようになった経緯についても話していただけますか?
フロンガスに問題があるというのを日本の知識階級の中ではじめて言い出したのは、高崎経済大学の石井史教授だった。まだカヌーを仕事にしていた時で、一緒にその石井教授と川を下っていた時、夜、焚き火の中で、そのフロンガスの問題について喋られた。「これはバウさんしか出来ないです!」と一番弱いところを突かれた。

その頃は、これで人生終わっていいなぁと思うくらいノンビリ生きてた。カヌーの場合、何をやっても相手が喜んでくれる。関東で、最初カヌーをやり始めたのは、知識階級に属する人たちだった。大学の先生とか経営者とか・・・。そんなメンバーがそろっているのに、こんな学歴もない僕が「左向いて~」というと素直に左を向く。ほんと、面白かった。価値観が変わるからだろうね、みんな喜んでくれた。そんな中で、石井先生の話を聞いた。

翌日には「もうカヌー辞めるから」と家にも子供にも伝えた。
一瞬で決められたんですね。
その夜に決めた。焚き火の中で。バーボンも飲んでたんだけど「先生、もうバーボンも止める」と言って・・・。それからだね。

その頃はまだ環境という言葉を使っていなかった、公害と言っていた。公害という言葉ではなく環境という言葉を使ってもらおう、そういう提案もしていった。何故日本が環境問題で世界レベルに入っていけないか、大学の先生や行政でも予算組ができるような立場の人といろいろ話しをした。結局、単独では動けない、動かないことが分かった。他の人が動いているから自分も動くというタイプの人ばっかり。

それで三角形のトライアングルの図式を思いついた。行政を動かすには、行政が一番弱い議員を動かす。議員さんが動けば行政に予算ができる。その議員さんが一番怖がるのが市民活動家。この三角形をうまく展開させるとシステムがポーンと1日で生まれてしまうんだわ。一番うまく行ったのが兵庫県の尼崎市や徳島の池田町というところ。そこは行って1日で三者を面談し、順番に話をしていっただけで、もう自分たちの力だけで動き始めた。そのやり方を全国に使っていこうというので、北海道から沖縄までまわった。
お一人でバンに乗りながらまわられたんですよね。
カヌーだけは車に乗せて・・・。結局カヌーに乗る余裕はあまり無かったけど・・・。
また資金のことを聞いてしまいますが、その時の活動費はどうされたんですか? 3年くらいかけて日本をまわられたと聞きましたが。
カヌーで貯めたお金を使った。でもとうとうお金も無くなった。これでもう終わりだろうなと思って家に帰ったら、小学校5年くらいだった息子が「とうちゃん、家を売れ。地球と家とどっちが大事なんだ」と怒り出した。しょうがないから家を売るか~ってことになった。女房は反対したけど、所沢あたりにあった家は二千何百万で売れたかな。それでローンを完済して、残った半分を家に渡して、半分を車の中に入れて、それで堂々と日本中を動き出した。

ページトップへ戻る