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第15回
以前1度だけお会いした男性なんですが、十数年前に亡くなられたお母さんの死をその後もずっと納得していなかったんですね。そのお母さんは病院でリンゴを喉に詰まらせて亡くなられたそうなんですが、自分は仕事の合間にしょっちゅうお見舞いに行っていたのに、自分の兄姉はお見舞いにほとんど行かなかった、看護婦さんも母親がリンゴを食べるときにそばにいてくれなかった等々、お母さんはすでに十数年も前に亡くなられているのに、なお私に怒りをぶつけられていたので、大変だなぁと思ったことがあります。
そうならないように在宅では時間をかけてお話を聴き、亡くなること自体は罪でも罰でもなく自然なことであるとお伝えしていきます。ガンかもしれない、老衰かもしれない、あるいは事故による突然死かもしれない、小さな子どもの死もあるかもしれない。いずれにしても、死は人がこの世から卒業していくことだと説明していきます。生まれてきて永遠に死なない人はいないわけですから、死は何も特別なことではないということは時間をかけてお伝えしていくようにはしています。

死について事前に言っておいて良かったというときもありますし、そうじゃない時もあります。時が解決してくれるというのはよくあることで、亡くなられた直後は受け入れられなかったというご家庭でも時の流れで受け入れが進んでいくこともあります。亡くなるのはそのご本人のタイミングであり、残されたご家族もご自身のタイミングを受け入れることができればいいかなと思います。無理矢理分からせるものでもないですし、表面的に分かったつもりでも何かの拍子に噴出してくることってありますよね。それは辛いですよね。
そういう意味でガンってそんなに悪い病気じゃないと思うのは、死まで猶予があるじゃないですか。私の友人で、お父さんが会社に出社したあとで脳梗塞で急死してしまった人がいるんですが、家族が突然亡くなってしまった喪失感を癒すには長い時間が必要だったと思います。一方、ガンは死まで日数がありますよね。もちろん抗がん剤で苦しんだり、ということもありますが、『死を受け入れるまでの時間がある』というのは悪くないなと思っています。
突然死というのはその死を受けとめるまでに時間がかかると思います。私自身、自分が突然死んだら廻りの人はどうするだろうとか、誰かが突然死したら自分はどうなってしまうだろうとちょっと考えたりしていました。そんなとき人間は感情の嵐になるのが普通で、それでいいんじゃないかなとも思います。
突然死でも、穏やかな生活の延長での死ならばまだいいでしょうが、例えば、前日親子喧嘩をしていたとか、相手と気持ちの行き違いや誤解が生じている間に片方が亡くなった場合には、残された人は後々悔いは残るでしょうし、その気持ちが癒えるまでには少し時間がかかってしまうかもしれませんね。
在宅の患者さんでまだ元気なときに「喧嘩しちゃったのよね~」という時があり、だんだん弱ってきて気力も衰えてきて呼吸状態も変わってきた。そして『もう長くはないかも』という合図があったときにご家族が「ゴメンね」とご本人に謝ったということがありました。そしたらご本人さんが「いいよ」と言ってご家族の頭を撫でたり・・・。

最近もありました。娘さんがお父さんに「ゴメンね」と言って、お父さんが頭をポンポンと叩いたと。それで気持ちが収められたと言われてました。こうやって気持ちの行き違いや誤解が解消されていればいいけれど、やはり解決しないまま・・という時には辛い時間が長いかもしれませんね。
テンプルのお客さまは、臨死体験や、死期が迫っている方がすでに亡くなっている家族に再会するといったような『お迎え現象』や『ビジョニング』を受け入れている方も多いかと思います。普通に生きていると、人の死に立ち会うという経験はほんの僅かしかないと思うんですが、賀村先生は多くの死に立ち会っていらっしゃいますよね。終末期にある方が、死の世界を垣間見る、過去に亡くなった人と会うといったことについて賀村さんの体験をお話いただけますか?
ビジョニングについてはデニー・コープさんが本に書かれていらっしゃいます。奥野先生は『お迎え現象』と言われています。私自身はこのことは積極的に言わず、ご家族との会話のなかで『昨日おじいちゃんが変なことを言って・・・』となったときに『どんなんだったんですか?』と話を進めていっています。

私が初めてこれはビジョニングかなと思ったのは75歳の子宮頸がんの女性でした。娘さんがキーパーソンとなりご自宅でケアをしていました。だんだんと水分摂取が不可能になってきて、死への恐怖を頻繁に口にするようになりました。親戚の方が来ていろんな話をされていました。日中もウトウトするようになり「お爺ちゃんが夢にでてきた、怖い」「扉を開けたらお父さんがいて迎えに来た」というようなビジョニングを経験されました。このときは娘さんから連絡があり「棺桶に半分入っているよね」という言葉があり「そうねぇ。目には見えないけど、お爺ちゃんたちが迎えにきて大丈夫だよと言ってくれているんでしょうね」というお話はしていました。これがビジョニングというものかなと思った最初の経験です。この女性は、娘さんとお婿さんがお母さんの身体の位置を変えようと、お母さんを抱きかかえたときに息を引き取られました。
それは素晴らしい瞬間を選ばれて亡くなられたんですね。
厳しい患者さんでもありました。いろんな経験をさせていただいたなと思います。この家には柴犬がいたんですが、私達が行くといつも仁王立ちするみたいにベッドの横に立ちはだかったので、「私達はこれからお祖母ちゃんの診察をさせていただくものです」と挨拶をし、その柴犬がベッドの脇にどけてくれると「どうもありがとうございます」とお礼をいい、診察が終わったら「今日のお祖母ちゃんはこうでしたよ」と柴犬にご報告をし・・・というふうな感じで診察をしていました。そういうふうにお祖母ちゃんをいつも守っている家族というか存在がいたので、非常に印象が強いですね。

ただ日本の方は大っぴらにこういったお話はしないですね。おかしくなったと思われるのが嫌なのかもしれません。私はこの方はもうすぐだなと思うときにはご家族にはあらかじめ、こういった不思議なことを口にするかもしれないけど、気が変になったということではないとお話します。お迎え現象みたいなものがあってもそれは大丈夫ですよとお話しておきます。
何かの本で読んだんですが、見えない方々が見える看護婦さんだったかな、病院に見えない人たちがワンサと集まり始めたら、ほどなくして患者さんのお一人が亡くなるんだそうです。あの世からのお迎えは1人2人のレベルではなく、大勢で来ているようですね。私は母がまだ元気なときに、そういうことが起きたら教えてって言っていたんですが、残念ながら母はそういった内容のことは何も話さなかったですね。
口にすることが少ないのかもしれないですね。
『看取り先生の遺言』を読むと、癌の在宅緩和ケアをされていた岡部先生はお迎え現象が起こる前提条件として、病院ではなく自宅で、ということを言われていました。病院だとやはり幻想幻覚があるということでクスリを処方されてしまって、お迎え現象が分からなくなってくるんでしょうか?
自然な形での死の過程を経ていくと、何が起こっているのか目では分からないんですが、その人がエネルギー体になっているというか、肉体よりも違うところに入っているような、そんな感じがしてきます。それが病院だと、たえず点滴があったり、器具の音がしたり、看護婦さんが様子を見に来たりします。もちろんそれが病院の仕事ではあるんですが、お迎え現象には環境が影響するのかなと思います。

ゆっくりと肉体から別の次元に変わっていくその過程で意識が拡がっていくというか。脳科学者のジル・ボルト・テイラーさんは、自分が脳卒中で倒れていたときに、指先が全てのものと同一化した感覚を持ったり、人間のものというよりは動物の感覚になったりと、いわゆるワンネスを感じたそうです。それが自宅にいると自然に起きていくのかなと。

⇒ジル・ボルト・テイラーさんの動画はこちら

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