1. トップページ
  2. 21世紀に生きるエドガー・ケイシーの教え
  3. 第15回「自然な形での死の過程を経ていくと、その人がエネルギー体になっているというか、肉体よりも違うところに入っているような、そんな感じがしてきます。」

第15回
『看取り先生の遺言』には、人生最期の過程にもっと宗教が介入できたらとありますが、宗教的な側面はどうですか? お一人お一人違った宗教観をお持ちでしょうし、全く神仏を信じていなかった人もいるでしょうし。
在宅のなかでは、あえて宗教的な話はしませんし、話題にもならないですね。
宗教的な儀式や概念を必要とする人としない人がいるのかもしれませんね。欧米のように三大宗教の確固たるバックグラウンドがあるわけでもないですしね。
さきほどの話ではないですが、死すべきタイミングのときに死ぬのが自然だよねという考えがもう少し拓けてきたらいいな~と思います。
いずれにしても、病院で死ぬか、自宅で死ぬか、ケアホームで死ぬかで、自分がどのような死を迎えるかはずいぶん変わりそうですよね。私自身は自分のミッションの1つとして、複数の方々と新しい家族を形成ながら、人生の最後を自然の中で暮らし、自然にゆっくり死ねるような場所を作りたいと昨年から動きはじめて、八ヶ岳に土地を買っちゃいました。

ところで、いろんな方の死に立ち会った賀村先生は、ご自身がどう死にたいかを考えたりします?
理想の死に方とはちょっと違うんですが、自然のなかで朽ちていく木のように枯れていく自分を想像することはありますよね。
ということはずいぶん長生きされそうですよね。
森の生い茂った木々のなかで木がゴロンと倒れて朽ちていく、そんな感覚ですね。新たな生命が混在するなかで枯れて死んでいき、それを廻りのみんなが受け入れてくれる。そんな場面をたまに想像します。だから、こういうふうに死んで、その時誰かが手を握って・・・という感じの想像ではないですね。
私自身は子どもの頃から、いつ死んでもいいなと思いながら生きてきたところがあるんですよね。4才の頃すでに、80才まで生きるとすると、人生は長いなとうんざりしていた子どもでしたので・・・。その代わり、いつ死んでもいいように生きたいなとは思っています。あっさりどこかで死んじゃって『光田さん、ケイシーやってたけど、あんな死に方したね』って言われるかもしれませんけど。
私も、枯れて死ぬって想像しながらも、朝、行ってきまーすと家を出てフト気がついたら死んでるっていうのもありかなと。自分が壁を抜けたって思ったら死んでたとか。
スピリチュアル系の人って時として、人が事故で死んだり、台風のときに溝にはまって死んだりすると、あの人はあんな死に方をして悪いカルマかしら?って云う人がいます。もちろん殺されるってことは嫌ですが、私はその人がどのように死んでも、その人の人生は貴かったと思うんですよね。畳の上で死ななかったからその人の最期は不幸だった、ということではないし、1人で亡くなったとしても、死ぬときにはアチラの世界から大挙してお迎えが来ているわけですから、決して孤独死でもない。
生きるって大変じゃないですか。重圧がかかっている中、みんな一生懸命生きてるでしょ。一生懸命に『こうじゃなきゃいけない』とか『こうするべき』と言って自分自身も周りの人もジャッジして嫌な気持ちになったり、怒りが爆発したり、悲しみがあったり。人として進化、成長するということは『肉体』だけではなく『心や魂』も含めてだと思うんです。今の社会環境って『心や魂』の成長という面において本当に厳しいと思います。そんな世の中から『肉体が死ぬ』というのは『この修業の場からの卒業。進化、成長しましたね。頑張りましたよ』だと私は思うんです。どのような最期だったとしてもみんな『一生懸命にこの世を生きたんだ』と思っています。

小学生だったか中学生だったかある男の子が職業体験でクリニックに来たことがあるんですね。その子が「最後に質問があります」と。「死んじゃった患者さんをどう思いますか?」「どんなときに悲しくなりますか?」という質問があったんです。それで彼に「亡くなられた患者さんについて、悲しさもあるけどこの世から卒業されて良かったねって思うよ」と言ったら彼の顔つきがパッと変わってアレって思ったです。

数日後に彼からお手紙をもらって、そこに『僕のお父さんは亡くなっています。先生は死は悲しいことではないのよって言ってくれたけど、でも僕はとても悲しい』と書かれていたんですね。

あ、そうかぁと思って・・・。私はこういう死生観をもっているけど、彼が死を悲しく思うのはすごく当たり前で今もリアルに感情が感じられる事実で・・・。自分自身、在宅医療に携わるようになって死生観が変わりました・・・。普通に私も悲しい、残念だ、という感情は今だって自然に湧きおこってきます。最期のお看取りの時にご家族と一緒に泣いちゃうこともあります。でもそれだけではなく『お亡くなりになる』という現象を通して自分たちが『生きる』ということや『愛』ということを学ばせて頂いているんだなぁ~と思うんです。『悲しみ』だけではなく『大きなギフト』を受け取っているんだね、ということをみなさんとシェアできれば、と。

お手紙をくれた男の子とはもっといろんな話が出来たら良かった・・と思いました。「悲しいよね、お父さんがこの世にいない・・・でもね」って時間をかけてお話が出来たら良かったなぁ、と。

今後は『お亡くなりになるということ』を子供さん達と一緒に話したり考えたり、感じたりする機会ができればいいな、と思います。

ページトップへ戻る