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  2. 第12回「なぜなら私達1人ひとりには、今いる場所において、特別な使命を持っているということ。これは私たちが想像できる何よりも素晴らしい事なのです」

第12回
博士は、92才(*2012年6月時点で)の今でも、現役でご活躍です。その博士の昨日の講義のなかで、西洋医学はKILLING (殺す)医療であって、ご自身はそうではなく、LIVING(生きる)医療を行っていきたいとおっしゃっていました。それはどういうことなのか、またいつごろからそのように感じられていたのか教えていただきたいのですが・・・。
そうねぇ、そのことについて考え始めたのは1970年代のこと。よく覚えているのが、友人や他の医者と一緒にある女性の出産を待っている時のこと、その中の医者の一人がこう言ったの。「現代医療においての問題とは何かって、それはこの医療に喜びが見あたらない、言い出せない事にあると思う」と。その時の私には彼が言っている意味がよく理解できたの。

喜び、つまり単に面白いとか楽しいという、そういう意味での喜びではないのよ。探し物を見つけた時の喜びという感じ。医療を目指した本来の理由、その探しているものが見当たらない。今現在の医療の中に、その喜びが失われている、ということなのです。

それは何なのか、なぜ喜びが見い出せないのだろう? なぜ失われたのだろうと考えているうちに解ったの。それまでに医療のなかで学んだこと全てが『殺す』、つまり排除、取り除くことについてばかりであることに気がついたの。殺すという作業の中には喜びは見いだせないし、取り除いたり、排除するという作業にも嬉しさは見いだせないと。
その後の数年間、ずっとそれについて考え、思い続け、友人とも語りあってきました。私達の使っているこの言語においてもそう。相反する言葉ばかりだと。抗生物質だの抗痙攣薬だの、アンチエイジングだのという言葉を使用していたけれども、特にアンチエイジング(抗老化)については、まるで老いていくことは良くないかのよう・・・。

今、私は、その『抗する』と言うこととは真逆の『健やかなる老い(AGING INTO HEALTH)』 という、それとは異なることをお話しています。

誰も皆、若く見られたいのです。そう考え始め、友人とそれについて話をしたりしているうちに、あるとき突然気がついたのよ、『KILLING MEDICINE(殺す医療)』ではなく『LIVING MEDICINE (生きる)医療』が必要なのだと!

思わず自分自身に、81年もかかってやっと解ったわ、ありがとうございます!って言ったのよ。

生きていれば、痛みも感じる。出産があり、死もあり、病気にもかかる。それでも生きていく。
病気が私たちに取って代わるのではなく、私達は私たちとして生きていくのです。それが転換期となり、焦点が変わったのよ。

ハーブ療法においてもそう。何かを切除したり排除することにではなく、身体を強化することに焦点をおくことで、それを無くすことが可能になるということなのです。

様々な人を見てきました。患者さんの中には、病気は治っていないのだけれども元気のある人、病気は治っているのに元気のない人…。つまり、病気が治癒しても、その人の癒しに繋がるとは限らないわけです。同じように、癒しが起こっても病気が治る、ということではないのです。
私自身も実は『悪い細胞を殺す』というイメージングがどうしてもできません。殺すという事自体が嫌なのでイメージできないし、したくないんです。だからホリスティック系のテキストによく書かれている『ガン細胞を殺すイメージをしましょう』ということに違和感があったのですが、このお話をお聞きして腑に落ちました。

では、その『LIVING MEDICINE(生きる医療)』にシフトしたことで、先生の臨床では、まず何が、どのような事が変わったのでしょう?
とっても良い例があるのでそれをお話しましょう。

様々な治療を受けている末期の肺がんの患者さんがいたの。彼女があるときわたしに電話で相談してきました。輸血が必要だといわれたけど、自分は輸血したくないと。その理由を尋ねたところ、エイズや肝炎にかかる危険性があるからだというの。エイズや肝炎にかかる確率はとても低いということも含め色々な説明をしたけれど、なかなか彼女が納得できる言葉が見つからなかったの。

でも彼女が恐怖心を抱いていることによって、全てを止めてしまうことの方がもっと恐ろしい事であると気づいたので、彼女に、この世界に自分の血液によって助かる人がいるという思いで献血をしてくださった方がいる。これは愛ある行為であり、あなたが輸血を受けることができるのはこの愛ある行動のおかげであると思わないかと話したの。すると彼女自身の持つ恐怖心を転換することができたのです。輸血を、愛を受け取る行為という風に、とらえ方を変えることが出来、最終的に彼女は輸血をしました。

生きると言う事に愛をもって、そして癒しをもって働きかけるということは、殺す、または排除するということとは異なることなのです。彼女はその後3ヶ月後に癌の為に亡くなりましたが、それは死を待つ3ヶ月ではなく、3ヶ月間、しっかりと生きたのです。
グラディス先生の愛ある言葉で、その女性は自分の思い方を変えることができたんですね。
そうね。物事の見方、とらえ方を彼女自身が変えたわけです。そうすることで彼女は最期までの3ヶ月間、生きるという事にフォーカスできたのです。まだ起こってもいないことに恐怖心を抱くことで全てを停止状態にすることなく。
同じような輸血にまつわるエピソードがあります。これは兄が経験したことなんですが、ある時、兄の友人の赤ちゃんが病気で新鮮な血液による成分輸血が必要になりました。友人本人はもちろんのこと、何人もの友達にお願いして血液を提供してもらったのですが、誰の血を輸血しても出血が止まらず、その赤ちゃんの容態はどんどん悪くなってしまったそうです。ついに兄にもその友人から連絡が入り、至急病院に来て輸血に協力して欲しいと頼まれました。

兄が病院に行くと、体重不足で兄からは血が採れないと言われたそうですが、折角なので血液検査だけでもしてみましょうということになり血液検査をしてもらいました。するとドクターは「これはとても良い血液です」ということになり、兄から限界まで血を採ることになりました。
そして兄の血液を輸血したところ、すぐに出血が止まり、その赤ちゃんは命を取り留めたそうです。その友達は、シゲルは娘の命の恩人だと今でも言っているそうです。

私はそれを聞いたとき、日頃から祈ったり霊的に生きようとしている兄の血液だった から、その赤ちゃんは助かったのかなと思ったのです。わたしがもし輸血が必要になったら、できれば霊的に正しく生きている人、少なくとも食生活くらいはキチンとしている人の血液をもらいたいなぁと思います。
祈るということこそが生きる医療そのものなのよ。それはあなた方が生きることにフォーカスをしているということなのです。愛と命(身と心)、この二つは一対で、それらを捧げ、身体についてどう対処するかは身体自身がわかっていることなのです。

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