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  3. 第14回「人間は生まれたときは100%自然なのに、意識が身体を不自然にしてしまっているんです。それをほぐしていかなければいけません。」

第14回
ところで、先生が武道を始められたキッカケというのは演劇だったとお聞きしています。俳優としての身体を作ろうとして武道を始められたと。
そうです。でも演劇と武道をやりながら副次的に演劇より絵のほうが好きだということに気がついたんです。武道の満足度を70~80%だとすると、演劇は90%くらい。それが絵だと100%満足。絵を描いている時は本当に楽しかったんです。それだったら大学を卒業したら絵描きになろうと就職は国立美術館にしようか、東京美術館で働こうか、そんなことを考えていました。

私という人間を考えてもらうときに次の3本柱を知ってほしいんですが、大学に入る前からキリスト教の信仰がありました。そして空手、さらに演劇や美術といった芸術もあります。このキリスト教、空手、芸術の3本柱を同時に考えてもらわないと私のことは分かりにくいと思います。

ところが、演劇をするための身体作りで入った空手で流儀最高段位に推挙されました。これは有難く辞退させて頂きました。そして就職活動前後に師匠から1年間お礼奉公という形で助けてほしい、助手をやってもらいたいと言われたのです。それで大学卒業後は1年間の約束で先生の助手になりました。すぐ美術に専念したかったのですが、天下の師匠に頭を下げられてしまったら断れないですよね。先生としてはもう一寸私のことを鍛えてやろうと思われたんでしょうね。ところが結果として7年間も助手をすることになってしまいました。私は大学卒業後すぐに結婚をしていたんですが、その7年間は師匠のもとで徹底的に働きました。

そしていよいよ絵だけに集中しようと思った頃、私は絵を通り抜ける、キリスト教を通り抜ける、武道を通り抜けて、何もしていなくても芸術であり武道であり信仰である世界があることに気づいたんです。

教会で洗礼を受けたり日曜礼拝に出たりというのではなく、もっとそこから抜け出して、ただ居るだけでも野の花の如く、空を飛ぶ鳥の如く神と共にある。武道的にも怖い顔をして突いたり蹴ったりしなくても、ただ手を伸ばして物を取ろうとするのと、向こうから攻撃しかけてくる人を殴るのと同じ動作で相手を倒せるようになった。美術に関しても、自分の身体を芸術として考えるならば、ただいるだけで美であり自然であるものがある、そういうところに辿り着いたわけです。

芸術を通り越し、宗教を通り越し、武道を通り越した何もない『空』の世界に入ってしまったわけです。それが31歳のときです。そういう境地に到達するまでに、絵については3つくらい美術学校に通いました。裸婦デッサンも一所懸命やりました。美術は時間がないので道場でも武道をやっている人を描いたり、電車に乗っているときにも乗客をクロッキー(速写)したり、どこでも描き続けていました。演劇は、俳優座の加藤衛(まもる)先生が横浜に作られたフォルクスビューネ演劇研究所の一期生として演劇を勉強したりしていました。空手は空手部を背負っていかなければならないので、空手を朝から晩まで徹底的にやっていました。キリスト教はキリスト者学生会というものに所属していました。

でも私は美術もキリスト教も武道も、自分の中でみんな通り抜けてしまった。本当に全部通り抜けて何も無くなってしまったのです。

美術でいうと、自分の絵を入れる最高の額縁はルオーのように自分が作った額縁でなければいけないんです。その額縁を飾る壁は自分が作った壁でなければいけない。その壁は自分の家になければならない。その家はその街に調和するように建てた家でなければならない。そして街も・・・ということになります。でもそんなこと出来ないですよね。

そんな時、私は自分が作った額、作った壁、作った家じゃなくてもいいと。今ここに置いてあるだけでいいんだということが分かってきたんです。

当時私は三浦半島の剣崎によく磯釣りに行ってたんですが、波を見ているともの凄く美しい。人間には絶対に描けないほど見事な波が出来た瞬間に消えてしまう。自然は惜しみなく作っては消し、作っては消しを繰り返している。夕焼けを見ていると本当にきれいですよ。そんなの絵の具では描けないですよ。とても自然にはかなわない。あるだけで美しい美の世界、感動の世界があるわけです。それなのにそんな美しいものも自然は惜し気もなく消してしまう。それに気づいたら芸術へのこだわりが消えてしまったんです。生きて居るだけで芸術である人生があるのではないかと。

信仰に関していえば、一所懸命教会の礼拝に行って旧新約聖書を読んで、聖書の何巻の何章に何が書いてある、というのではなく、聖書全部のなかにある、命である大いなる天、全宇宙を造った神と自分が一体となって幸せになり、神を讃えて感謝し、思いきり人生を生きればいい。それを邪魔するものをキリスト教では罪と呼んでいるけれども、それを捨てて神の霊に入ってもらいなさいと。それでいいと思うんです。

しかし気をつけないと、信じ方によってセクトが出来てしまうわけです。何教、何宗、何派と。イスラムでは今、イスラム教徒同士で大戦争をしていますよね。キリスト教でもカソリックとプロテスタントが猛烈な戦争をしました。しかし本当は、そんなことではなく、極意は罪と言われる自我や利己心を捨てて、大いなる大宇宙の生命エネルギーや神の愛を受け入れて一体となる、それだけでいいんだと。そうしたら義務や罪悪がらみで教会に行ったり聖書を読んだりしなくてもいい。そうなったら宗派、宗教は超えてしまいますよね。

武道に関しても、激しく突いたりしますが、一方、棚の上に手を伸ばして何か取ろうとするとき、そこに人がいたら昏倒するほど強い突きを私達は出しているわけです。無意識に肘をどこかにコーンと当てたときも痛いですよね。その時後ろに人がいて顔面にでも当たったら、ひっくり返ってしまいます。そのくらい強い力が我々の体から出ているのです。だから自然でありのままでいいんだということが分かったんですね。

そうすると、何々主義といった芸術も消えてしまい、宗派宗教も消えてしまう。武道も利く、利かない、どういうふうに力を入れるかといったことが消えてしまう。普通に手を出すだけでも相手が倒れてしまうんですから。そうなると芸術も消え、宗教も消え、武道も消え何も無くなってしまいます。私は完全に無の世界に入ってしまったのです。

完全に無の世界に入ってしまった当初はいったいどうしたのかなと思いました。もう恐怖の深淵に入りこんでしまったようでした。でもやがて、これが禅でいう無相の世界、空の世界なんだなと気がつきました。それがずっと続きました。私はこれをゼロ化と呼んでいましたが、この時から45年間も続きました。
45年間ですか!?
45年間。去年の2月まで続いていました。私は完全な無の世界に45年間いました。ところが去年雪山で瞑想しているとき、突然『無』が消えたんです。『無が消える』というのは言語的に矛盾がありますが、ものすごい花盛りで四方八方頭の上も満開の桜の花、梅の花、桃の花にくるまれているような状態になったのです。身体からも花の匂いが溢れ出ているような感じがしました。身体の外からも中からも匂いがする。

その花々は真っ黄色の花なんですが、そのおびただしい絢爛の花園に入っている自分がいたんです。45年間の完全な無の世界から抜け出して、ただ、自然の何でもない花盛りの世界に入ったんです。私は絶対無とも言うべき状態が道の極地だと思っていましたので本当に面食らいました。もう唯ただ美しく快い世界なのです。

しかし、その後さらにそこを突き抜けて、もう自分は出家して仏の世界、神の世界に行くだけしかないと思ったら苦しくてしょうがなくなってしまいました。稽古も見えないし、書道も見えないし、仕事も何も見えなくて、本当に困ってしまって、それが2ヶ月くらい続いたのかな。そのうちに待てよと。自分は教会でいうとキリストの十字架に向かって祈る、お寺で仏像を仰ぐ、神社で天照大神に祈るというのではなく、それらを背負って回れ右をし、民衆の方に向かわなければいけないのではないかと。そう思った瞬間に心の世界がパーっと開けて周囲のこと全てがとてもよく見え始めたんです。2013年の秋、最近のことです。

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