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  3. 第14回「人間は生まれたときは100%自然なのに、意識が身体を不自然にしてしまっているんです。それをほぐしていかなければいけません。」

第14回
それはすでに新体道の宗家として指導されていた頃のお話ですよね。
もちろんそうです。それで、弟子達に私はしばらく不在になるからこういう稽古をしていてほしいと稽古の体系を作って、アメリカのサンフランシスコに行ってしまったんです。その時サンフランシスコ支部はもう出来ていましたから、そこの弟子達が私を尊敬して集まってきてくれるんです。でもそういった愛すべき人たちに囲まれているのが辛くて、今度はロスに行くんだけども、ロスの人たちもやはり同じように集まってくる。それも辛くてメキシコに逃げました。

妻には1ヶ月半~3ヶ月くらいで帰国するって言って出て来たのですが、メキシコを歩いてもスペイン語が分からないんで、短期ですがスペイン語学校に入って、少しだけ勉強してグアテマラに行きました。でもその前にメキシコでひどい病気になってしまって体重が12kgも減ってしまいました。ガリガリに痩せて今日死ぬか明日死ぬかと思うんだけどもなかなか死なない。だったら旅をしながら死のうと思って、中米をあてもなく旅しました。

中米で3ヶ月くらいたって帰ろうと思ったときに、ちょうどパナマ運河がパナマに返還されるというニュースが世界中を賑わせていました。そこでパナマ運河を見て帰ろうと思ったのです。パナマに行ってみたら、運河を渡れば南米なんですよ。中米と南米では迫力が全く違いますものねぇ。それで、じゃあ南米に行ってみようと飛行機でコロンビアに飛んだんです。そこでついに大きな旅が始まってしまいました。エクアドル、ペルー、ボリビア、チリ、アルゼンチン・・・。ブラジルには4ヶ月も滞在してしまいました。空手時代からの仲間が沢山いたのでブラジルの人に新体道を教えたりテレビに出たりもしました。そんなことをして過ごしているうちに、じわじわと心と身体が回復して気持ちも休まり、ついに帰国の途につきました。
その中米、南米の旅行中は、新体道の指導をする、ということはあまりなかったんですか?
ただただ、ブラブラと旅を続けていました。気が弱くなって逃げ回っているわけですから。おかしな話ですが、私は武道というものはあまりいいものではないなと思ったんですよ。引くとみせて押したり、右に行くとみせて左から技をかけたり、スキを突いたり相手をだますことばかりでしょう。ダマし合いの世界、武道ほど嫌らしいものはないですよ(笑)。相手の弱点を見つけてはそこに切り込んでいくし。普通は人の弱点は助けてあげるものでしょう? 武道は人の弱みや隙ばかりを突き、あるいはだまして技をかけるわけですよ。だから私は悪いことばかりしてきたんだなぁと。まぁ冗談ですけど。ただこの時期に、新体道を母体にした大きな棒術体系を創り上げていました。

私はね、自戒をこめて申し上げるのですが、武道人はもっともっと多くの人に尊敬されるようにならないといけないと思うんです。大きなお寺の住職は人から尊敬されていますよね。比叡山の千日回峰行をおさめた方には人は自然と手を合わせますよね。中国だと、各省にプロの書道家による書法家協会があるんですが、そこの会長は人々に手をあわせて拝まれるほど尊敬されていますよ。

でも厳しい修行を積んできたのに武道家が特別に尊敬されるという程のことはない。柔道でオリンピックでメダルをとった人、空手で世界チャンピオンになったような人が道を歩いていて、誰が手をあわせて拝みますか。いないでしょう。何故か。私たち武道家はもうこの辺でそういうことをもっと真剣に考えないといけないと思いますよ。柔道界など昨年から今年にかけては、もう悪いニュースが沢山ありました。本当に残念です。
全部をひっくるめないで、お一人お一人にお会いすれば、皆さん人間的に素晴らしい方々なのではないかと思いますが・・・。
でも誰かに拝まれるということはないでしょう?だから拝まれるくらいの武道家にならなければいけない、と言っているのです。目標としてね。これは本当に自戒でもありますし、そういう武道を創らなければいけないということでもあります。日本人は創造が下手です。日本の特許の数は世界有数ですし、東京の大田区の町工場の皆さんなど死にものぐるいでやっていて世界的にも有名で素晴らしい創造が生まれていますが、国民の風土としては創造は下手です。

私は世界になかった新体道を開発しました。いまはさらに新体道を母体とした、居合い抜刀剣術である剣武天真流の指導に打ち込んでいます。でも皆さんはそういう創造性よりも、すでに伝わっていることだけをやっている第20代家元、30代家元などというほうを尊重するでしょう? 歌舞伎の役者が来ると喜んでますよね。彼らも伝承を守るために一所懸命やっています。勿論、伝統を守るということにはそれなりの苦労があります。でもそれは歌舞伎に代わる新しいものを創造するのではなく、伝承をやっているんです。新しいものを開発した人は無形文化財にはならないんです。昔からあったものを受け継いだ人が無形文化財になる。

僕は他の柔道や空手、あるいは剣術の人に言いたい。人の流儀がどうのこうの、そんなことばかりやっていてはダメです。もう誰もかれもが、あれはインチキだとか我が流派こそ最高だとか、そんなことばかり言うのはもう止めなさいと。

古いものを尊ぶから能や茶道、歌舞伎にしても何代目などという人をあがめます。大金をはたいて見に行きます。でも私たちのところには誰も大金をはたいては見に来てはくれない。それは日本の文化が新しく創造されたものを受け入れにくいからだと思います。創造より伝承を取るんです。アメリカやヨーロッパに行くと、伝統を尊びつつも新しい文化を歓迎するので、とても大事にされます。

今日の日本は、エレクトロニクスで非常に進んだ発明がおびただしくあり、アニメやファッションなど全く新しい意識の目覚めには素晴らしいものがあります。また女性の台頭は必ずや今までになかった新しい文化を生み出し育んでくれるものと信じています。

ということで、私は39歳、40歳くらいで燃え尽きてしまって、40代はじめに中南米に行き1年間旅をしました。それで心と身体が休まり、帰国後、さらに10年くらい新体道をやったんです。棒術も旅行中に創りあげていましたし。

ところが50歳をすぎてからひどい腰痛が出てしまったんです。武道は型を学ぶ世界、先生の形を真似する世界です。弟子達は私に憧れてきていますから、腰痛の先生がその姿を見せてはいけない。それで51歳の時、あとを二代目にまかせて引退しました。引退後は瞑想をしたり世界の民間治療を研究していたら、あっという間に10年くらい過ぎていきました。
51才で一度、引退されていたんですか。ちょうど今の私の年齢くらいの時です。武道を極めるべくずっと全力疾走されてきた先生が、武道から退かれていた時期があったというのはとても想像できません。
結局、脊柱が歪んで背中の神経が押しつぶされてしまっていたのが分かったんです。それは66歳のとき、東京女子医大病院で手術して治りました。

60歳になったとき、このままでは仕方がないから、あまり好きでなかったのに書道の世界に入ったんです。書道もいろんな流儀があります。日本の文字はひらがなでもカタカナでも漢字から来ていますから、それならば漢字の源である中国書道をやろうと。そんなことを考えていたら電車の中で中国書法学院というのが開校されるという広告を見つけたので、第一期生として習い始めました。

そこは上海大学の認定校だったので、私は上海大学認定の師範になったんですよ。3年半で卒業しましたが、書論については卒業してから猛勉強しましたよ。中国書法学院は中国人の先生ばかりだったので、書論について先生方が日本語でうまく教えられなかったんですね。だから書道について書かれた本は夢中で読みました。漢字の始まりである3500-3600年前の甲骨文から青銅器文、石鼓文(せっこぶん)、篆書(てんしょ)、隷書(れいしょ)、木竹簡、章草、草書、行書、楷書などの十書体を学び、康有為(こう・ゆうい)らの書論も夢中で学びました。

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