1. トップページ
  2. 21世紀に生きるエドガー・ケイシーの教え
  3. 第14回「人間は生まれたときは100%自然なのに、意識が身体を不自然にしてしまっているんです。それをほぐしていかなければいけません。」

第14回
少し話を戻して、さきほど話された『無』について、もう少しお聞きしたいのですが、無の中にいる、というのはどういう感覚なんでしょうか? 美しい景色を見ても感動がない、美しい絵画をみても何も心が動かない。何か自分の感情が平坦になっているような、そんな感覚ですか?
違います。意識の中で一切の存在が無くなり、無限の深淵が広がる感じです。一切のものに対しての価値が失われてしまうような・・・。大いなる闇の真空の宙間に一人残されているというか。一方、それはまた恐るべき解放でもあるのです。
その間も、お弟子さんたちに新体道の稽古をし、人と会い、話をし、講演も行い、旅行もしていたわけですよね。
そういう意味では普通に生活はしていました。
私は朝、目が醒めたら『あ~今日も目が醒めてしまった。今日も生きてしまっている』と、生きていることが悲しくて仕方がなかった時期が何度かあるんですが、そういう感覚でもなく。
全ては普通です。何も変わりません。でも完全に自分が真空というか、何もない無の世界に生きている感覚です。愛とか信仰とか生きるとか誠実である、ということにもね。いろいろありますよね。その頂点に神があるとしますよね。そうすると神は光だと言いますよね。数千年の歴史を持つユダヤ教のカバラによると、光とは何かというと『有』なんです。有とは何かというと、有と無は一体ですから無を背景にした有なんです。そして無の背景には『絶対無』があるんです。絶対無の背景には何もありません、絶対無ですから。ここまで来てしまうわけです。

絶対無のところに来てしまっていても、全てはあります。これもある、あれもある、あなたもいる・・・。あるけれども無なんです。そこに行かないと分かりにくいかもしれませんが。
その渦中にいても無にいるという自覚はやはりあるんですか。そこを抜けて初めて『あれは無だった』ことが分かったのではなく。
無に入ったときにはもちろん分かりました。『あ、すごい状況に入ってしまったな』と分かりました。それと実は『無に入った』というより広大無限の『無の世界に出た』といった方が近いでしょう。
私はある日世界がグレーに見えてしまって、しばらくしたら少しずつ少しずつ色が出てきた、という感覚があったことがあるんですが、そういったことでもないんですよね。
それに近いかもしれませんね。一言で言ったら宇宙的な永遠の虚無の深淵ですよ。そこに一人漂っているというか。イメージとしては、うす暗い荒野の中を一人トボトボと歩いているような、45年間いつも荒野が見えていた・・・。
そのとき神はいなかったんですか?
それまでの愛と光に輝いていたキリスト教世界が完全に消えてしまいました。神も何もない状態ですから。私一人永遠の虚無、絶対無の宇宙に取り残されてしまったのです。
そうはいっても日々喜びはありますよね、稽古の時には光も見えますよね。達成感もあるでしょうし。小さな光や喜びはあるけれど、大きな意味では闇のなか、無のなかだったんですか?
そうです。無相の世界です。これは価値観とか世界観とかいうようなものです。
それを抜けた瞬間というのは、何か出来事があったんですか?
ありました、ありました。大きな出来事が。でもこれを言うとまたさらに記事が大幅に増えますよ(笑)。

去年(2013年)の2月に群馬県の万座高原の温泉に行っていたんです。高い山の温泉宿にいて、下のほうに万座温泉の源泉があり、そのあたりに真っ白に雪をかぶった5メートル、10メートルの丘が沢山あるんです。私は100メートルくらい上の方からそれらを見下ろしていたんです。

俺は雪のヒマラヤを突き抜けて向こうに行くとか、氷のアンデスの向こうに行って新しい世界を切り拓こうとさんざんやってきた。でも実際は、わずか5メートル、10メートルの凸凹の上に、ほんの2メートルの雪が積もっていただけで歩いて越えることもできない。人間って弱いなと。これからは高いヒマラヤ山脈やアンデス山脈を突き抜けて行こうなんてことではなく、2、3メートルの雪をかぶった、わずか5メートル、10メートルほどの高さの丘でもなんとか頑張って越えて行こう。そんなふうに思いながら雪を見ていたら、何かがふわ~っと変わってきたわけ。ただそれだけなんです。ただ、ふわーっと変わってしまいました。
目の前の霧がさーと晴れてきたという感じですか?
無だから霧もないんです。その何もないところにいたのに、気がつくと突然満開の桜・桃・梅のような花の中に自分が入っていたんです。頭の上も前後左右も唯ただ黄色の花で埋め尽くされていました。ピンクや赤はありませんでした。これは凄いな~と。花の香りも良くて、そのうち身体からもいい香りがしてきました。
極楽浄土の世界ですね。
もう極楽浄土そのものでしたねぇ。その爛漫の花と素晴らしい芳香は何ヶ月も続きましたよ。今はとくに香りはしないけど無くなってもいません。今もその世界にいます。無の世界こそ稽古道を学ぶ者全ての帰結する所だと思っていたので、一体何が起きてしまったんだろうと思いました。こんなこと聞いたこともない・・・と。それが十牛図に書いてあったんですよね。普通、悟り、無の世界を最後にするでしょうが、千年前の廓庵という禅僧は知っていたんですね、その次があることを。すごい人がいたもんだと思いました。

それからの私は無ではなく、花の世界にいる人になって、出家するのではなくて、全てこういうものを背負って民衆の中に入って行こうと決めたのです。

雑誌『秘伝1999年12月号』より
私は昔は雑誌に出たりテレビにでたり、さんざんやってきました。それを全部止めて、民衆のなか、サラリーマンや普通のおばちゃんと共に生きようと決めていたんですが、それが20年ぶりで一気に拍車がかかったという感じです。それまで一番それをやっていなかったから・・・。
青木メソッドがそうですよね。私は以前のことは存知あげませんが、昔から新体道をやっていた方にお聞きすると、青木先生から直接指導を受けることが出来るなんて、凄いことなんですよと。
青木が凄いなんてことはないです。人間はみんな平等なんです。そこでみんなが一緒に瞑想をしています。そこで誰とでも会えるし・・・。大手のマスコミに対してでも、町内会の御老人達やおばちゃん達に対しても全く平等です。それははっきり自分でもそう思うし、そういう生き方をしています。それには迷いはありません。

今はどうなのかと最終的な結論をいうと、自分でも処理できないくらい自分の中がどんどん進み続けているんです。どんどん切り替わって、次々と発見があり、いまだに進み続けているということです。

江上先生、井上先生、そしてエドガー・ケイシーもそうですが、自分が持っていないものを持っている先生には頭をひれ伏して習わないといけないのです。水は低い方に流れます。情報も頭の低い方、心を開いた方に流れていきます。だから頭を低くしてよろしくお願いしますと言わなければ、先生方の価値は分かりません。組織なども全く関係ありません。その組織にいるから大きな思想を得られるなんてことは絶対にありません。

先人たちは死にものぐるい以上の稽古をし、信じられないような霊感を受けて歩んできたわけですから、道を学ぶ人は本当に謙虚になって教えていただき、そしてまた最敬礼してありがとうございますと言わなければ分からないと思います。そうすれば理解を超えたものが全部自分の方に流れ込んできます。ましてや自分は何もできないのに他流を批判したり名人の悪口を言ったりしていてはもう一生ダメです。青木のグループにいるから大丈夫だとかダメだとか、そんなことも全く関係ないです。全ては自分1人の問題です。

ページトップへ戻る