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第14回
最近の話ですが、こんなことがありました。

去年(2013年)の2月、私は無の世界から抜け出しました。私の師匠は100%江上先生でまさに仰げば尊し我が師の恩です。江上先生への私の思いは親父を慕うごとくで、師匠を心底愛していましたし今でも尊敬しています。江上先生も私のことをもの凄く可愛がってくれて大事にしてくれました。本当に慈父そのものという関係です。今でも私の心は変わりません。今日、武道家として何とかやってこられた基盤は全て江上先生です。ただ心酔はしていませんでした。そこをどうか誤解しないで頂きたい。何故か。私は当時キリスト者であり哲学や西洋文学を一所懸命勉強してきましたから、心酔するということはありませんでした。彼も一人の父親であり一人の弱い人間だったからです。

雑誌『秘伝1993年11月号』より
私は江上先生の門弟というより、他所から来て一宿一飯の仁義で草鞋を預けた、他所の流儀の人間が来て先生に習った、そんな関係です。でも全力で師事していましたよ。それを江上先生は評価して下さっていました。江上先生のお弟子さんたちは私が江上先生を裏切ったと言いますが、そういう意味では最初から裏切っています。江上先生も「おまえは俺の弟子ではない。おまえは他所から来て学んでまた出て行く人間だ」と、そう言っていました。もう1つ「もし将来自分の名前が残るとしたら、それはおまえのおかげで残るだろう」と何度も言われていました。

江上先生のどこが凄いかというと、私に対して自分の弱みを平気でさらせた先生だったからです。嘆いたりしょぼくれたりを丸々見せることが出来る先生でした。その凄さですね。

私は高校を出てから文学が好きで、西洋文学を散々読んできたし哲学もやってきましたから、誰に会っても崇拝はしません。人間というものを。トルストイ、ドストエフスキー、シェークスピア、ディケンズ、ロマン・ロランなど色々読んできたから、偉そうなことを言う人がいても心が簡単に読めてしまいます。先生が言うことでも何でも。哲学も学んできましたから先生の思想はこれに近いなとか、その思想を理解するのに苦労はありませんでした。ですから私は江上崇拝者ではありません。そうではなくて江上先生は技を一所懸命追求していく慈父だったのです。自分の父親を尊敬していても、その父親が世界一賢くて能力があるとは誰も思いませんよね。そんな慈父でした。だから江上先生に対する尊敬は今でも変わらないです。組織とは一切関係なく私の道の師匠ですから。

ちょっと面白い話をしましょう。私は稽古を通し、自分の人格が変わるほどの大きな転換や発見をすると、必ず江上先生のお墓参りに行きます。先生はウイスキーが好きだったんですが、当時は貧乏で安いサントリーの角瓶しか飲めませんでした。瓶が空になってもいつまでも振ってるくらい好きでした。今の剣武天真流を始めたときにもお墓へご挨拶に行きましたし、4~5年前、大きな悟りがあったときにもブランデー持参で行きました。

45年ぶりに十牛図の返本還源(へんぽんげんげん)というか、無の世界から抜け出したときもまず師匠に挨拶をしに鎌倉山に行きました。フランスのブランデーXOを1本まるまる墓石にかけてお詣りしたんです。そしたら墓石からブワーっと煙が立ったんです。最初は冬の日射しを受けて石が暖まっていたからブランデーが蒸発したんだと思ったんですが、石碑の真ん中から左手にかけて煙が出てきたので見てました。そしたらその煙の中から人が出てきたんです。『あ、先生の霊が出てきた!』と思って見てたらそれは先生ではないんです。私自身だったんです。私が出てきたんですよ。

そしたら右上に先生のニコニコした顔が浮かんできて『青木よ、今までおまえは俺をとても大事にしてくれた。時々陰で悪口も言ってたけどな』なんて笑って言っているわけです。『おまえは俺から教わったと思っているけど、それは俺じゃないんだよ。おまえ自身なんだよ。おまえは自分に習っていたんだ・・・』 そんなことを言ったんですね。

えー!っと思っていたら『おまえはずっと江上や井上に習ってきたと思ってきたけど、そうではない、おまえは自分に習っていたんだ。悪態をつくってこともおまえは自分に悪態ついてる。それだけ自分が悪いってことだよ』ゲラゲラ笑いながらスーっと消えていったんです。

感激しましたねぇ。本当にカッコいい先生だなと思いましたよ。本当に凄い。この師匠は一生超えられない、素晴らしい先生だったんだなぁと思いました。

*返本還源(へんぽんげんげん):十牛図の9番目。原初の自然の美しさがあらわれてくること。悟りとはこのような自然の中にあることを表す。
江上先生は今でも青木先生をずっと見守って下さっているんですね。そして同じように、青木先生もお弟子さんの夢の中や瞑想の中に顕れてひそかに指導されているかもしれませんよ。
それはあるでしょうね。みんな時々うなされていたりして・・・(笑)。

武道で大切なことはいくつもありますが、本当に死にきって生きられる。生きる死ぬを超越して、いつでも人のために愛を持って死にきれること。身体が自然になっていること。人間は生まれたときは100%自然なのに、身体は自然でありながらも意識が身体を不自然にしてしまっているんです。それをほぐしていかなければいけません。20年、30年あるいは50年かけて不自然な身体にしてしまったものをもう1回自然と融和させるようにしなければいけません。100%自然と融和しない部分を私は『力み』と言っているんですよ。『力み』はエゴなんです。

クリスチャンがキリストを受け入れるとき、身体のアチコチに罪があると100%キリストが入ってこない。ドミニコ派のエックハルトが言っています。バケツの中に水を入れるとき石ころが入っていたら水は100%は入らない。心の中に罪どころか信仰や愛、献身、祈り、服従という石ころすら入れてはいけない、無になりなさい。愛もいらない。そうすれば100%神の霊が注ぎ込まれてくると。本当に凄いことを言った人ですねぇ。これはとっても大切なことだと思います。

そういう学びが武道の学び、新体道の学び、剣武の学びです。昔は『新体道』という名前でやっていましたが、今は天真会の武道として『天真体道』とか『剣武天真流』とか言う名前も使っております。名前などは現代に生まれこれを愛してくれる人々を支え、力づけ、喜ばせるというその使命を終えたら消えていって良いのです。今はそういうことで『天真体道』『剣武天真流』を使っていますが、名前に関してはあまりこだわっていません。キリストも自分の教えをキリスト教だと言わなかったですし、釈迦も自分の教えを仏教だとは言っていませんよね。だから名前はどうだっていいんです。青木の体技でいいでしょう。

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