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  3. 第14回「人間は生まれたときは100%自然なのに、意識が身体を不自然にしてしまっているんです。それをほぐしていかなければいけません。」

第14回
奈良時代後期は人が土地を耕して広げていった時代で、全国の土地は朝廷のものだったので、全国民はその土地を借りていたのです。そして税を払っていました。いい土地を所有して一所懸命に働いた人、人を使ったり才覚を発揮してたくさんの農作物の収穫ができた人は土地がどんどん大きくなります。それが荘園になりました。飢饉が来ると人々は荘園に入り込んで農作物を盗もうとします。また朝廷も必要以上に干渉しました。そこで荘園主は用心棒を雇ってその防衛をはかるわけですが、その武装農民の用心棒が武士の始まりでした。また朝廷側も武装農民を雇って荘園を管理しました。そういう用心棒が5人、10人と増えていくと用心棒軍団ができ、荘園主が棟梁という後の小さな土侯となり、小さな藩になっていったのです。平家、源氏もそういうところから派生しました。これは豊臣秀吉の時代まで続きます。

でも、廻りに同じような強い藩ができると争いが起こり始め、いつ殺されるか分からなくなりますよね。そうやって日常的に争いが起こるような時代になると、いつ死んでもいいという覚悟をしなくてはならなくなります。死ぬのが当たり前の時代になると人は死を受け入れる思想を持とうとします。人生は空しい、儚いものだという無常観が出てきます。そういう無常観と仏教が呼応して広まっていったと思うんです。刀で人を切ったり切られたりしているうちに、生死を超えてしまう。武道も究極的に宗教的になるんです。

織田信長が亡くなる前、謡曲敦盛の『思へばこの世は常(永遠)の住み家にあらず。人間(*じんかん、人の世)50年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。ひとたび生を受け、滅せぬ者のあるべきか』と詠って敵陣に飛び込んだと言われています。まぁ、それを見た人はいなかったでしょうし、いても明智光秀軍に殺されてしまったでしょうが、この世の人達は皆死んでいってしまう、死なんか怖れることはない。武道家や侍はそういう無常観を持っていました。

無常観を持って淡々と生きている人間からすると、逆に私利私欲に振り回されている人、生死におびえている人、様々な作為にとらわれている人達の隙がよく見えるんですよ。心や魂のレベルがあがると、それらが低い人の弱点、欠点が見えますよね。そこを切り込んでいくと技が入っていくんです。山本常朝の葉隠に『武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり』とありますが、死を覚悟した人にとって他人のすることは些細なことに見え、何も怖くなくなります。そこから見ると相手が力んだり怖がったりするのが全部丸見えです。それで武道は霊的で宗教的なものになってきたのではないかと思います。また人の命の本当の在り方というのは、やはり『生きている』という一言に尽きるのです。今ここに存在しているということです。『武士道とは死ぬことである』というのは、死ぬことによって生を超越し、存在そのものを純化しているのです。

稽古が進み、更に先に行くとスピリチュアルなレベルによって技が変わってきます。力を入れるのではなく抜いたほうが技が強いとか。でもそういう技は、こちらが落ち着いてリラックスして自然体でいないと出来ないんですね。より宗教的でスピリチュアルな状態になると、より技が使えるようになる。武道をやることで腹を練る、死を超える、相手がよく読める、より自由になり解放される。そうするとさらに技が際立ってくるという図式が成り立って来るのです。

『敦盛』全文
思へばこの世は常の住み家にあらず。
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。
きんこくに花を詠じ、栄花は先つて無常の風に誘はるる。
南楼の月を弄ぶ輩も月に先つて有為の雲にかくれり。
人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。
でも、バッサリあっさり死ぬのはいいですけど、痛いのは嫌じゃないですか?
そりゃ、嫌ですよ。死を覚悟しているという名人でも、小指の先をペンチで挟まれたらアイタタと叫びますよ。ヨガをやっているアメリカ人の女性が来て「私は死は何でもない」と言っていたんです。一度押しくらまんじゅうをしてその人が倒れて一番下になったんです。そしたらその人が「ヘルプ、ヘルプ!死ぬ~」と悲鳴を上げわめいていたんです。終わったあとその人が「死ぬと思ってすごく怖かった」と言うので「あなたはいつもヨガやっているから死は何でもないって言っていたじゃない」って聞いたら、「本当に怖かったから死は怖くないなんてもう軽々しく言わない」って言ってましたね。

話を戻すと、武道というのは禅の思想と繋がっているわけです。千利休は大徳寺(禅宗)で長いこと修行していた人ですが、キリスト教的なものも非常に持っていたと言われています。

攻撃の前、人を怖れているときに『自分には愛が足りない、キリスト教的に愛さなければ』と心底そう思って立つと何も怖くないんですよ。攻撃しようとする相手がとてもよく見えて来るのです。

ある大学で空手を教えているとき、一人の女子部員が男子部員との組み手を怖がっていたので、キリストが言っているように己を愛するように相手を愛しなさい、愛してごらん、よく見えるようになるからとアドバイスしたら、本当に組み手が怖くなくなったと喜んでいました。

つまり武道は死を見つめることで、生きる死ぬを超えることができるんですよ。それが日本文化の凄いところですよね。
英語で武道はmartial arts と言いますが、martial (マーシャル)はどういう意味なんですか?
軍事的な、とか、軍人的なという意味です。つまり武道は軍事的芸術ですよね。
では武道の武はどういう意味なんですか?
武の『戈』は昔の槍・戈(ほこ)を意味しています。戈とは槍の横にもう1つ刃が飛び出していて、それで敵を刺したり叩いたりして倒したのです。武は『槍を止める、戈を止める』が語源です。戈を止めると拡大解釈すると『敵に憎しみを持たず、自分の心にも憎しみを持たず愛の心を持つ』。そうすると、武道の極意は『戈を止める』ことから自分の内側にある戈の気持ち、敵を倒そうとする気持ち、相手が自分を倒そうとする気持ちを消し去る。愛こそが戈を止めることになるので、植芝盛平先生が『武は愛なり』と言ったわけです。

ただ本来、『武』は敵の攻撃を止めて反撃する、そういう字です。
そして新体道は『武』でありながら、同時に自己解放をも目指している・・・。
そういう新しいものが見えてきたんです。50年前には『力みを抜いて気をひらき自然と溶け合う、思いっきり解放して自由にやる』なんて言った人はほとんどいませんよ。当時、私はずいぶん人に笑われたり、馬鹿にされたりしてきましたが、今は誰でも言っていますよね。

日本で武道や闘技のビデオを作っている大変有名な会社の社長が「40年前、青木先生は変わったことを言う人だなぁと思っていました。そんなこと言うのは青木先生以外誰もいなかった。でも今は誰もが言っていますね」と笑ってました。私の考えが日本の武道に少しは浸透したんでしょう。今、使っている人も、よもや私が言い出した言葉だとは思ってないと思います。『気(脳波)を読む』とか『遠当て』もそうです。それでいいと思います。

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