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  3. 第14回「人間は生まれたときは100%自然なのに、意識が身体を不自然にしてしまっているんです。それをほぐしていかなければいけません。」

第14回
自己解放するとか、個性を解放する、というのも新体道の目的にありますが、自己解放された状態、個性が解放された状態というのはどういう状態なんですか? エドガー・ケイシーだと神の御前に自己を放棄する、自己を明け渡す(Lose self in Him)と言っています。in Himということが重要なのですが、そのようなイメージですか?
それと全く同じことですよ。キリスト教的だと100%神を受け入れてしまう。禅だとこだわりを一切捨てる。放てば満ちるといいますが、俺が俺がとか、これこそが大事という思いやこだわりを全部捨てると宇宙のバイブレーションとか大自然の命の力というものが自動的に入ってくる。

雑誌『気マガジン1994年10月号』より
神とは何だと考えたときに、全天地に満ちている宇宙の生命エネルギー。それしか無いと思うんです。それを操るもの、操るエネルギーが神。それには意志もあるし、方向性もありますが、先述のラズロー博士が言ったように量子物理学ではそれが立証されているわけですから。

人類の歴史の中では人類を守るために、時々とんでもない人が出てくるわけです。その典型がエドガー・ケイシーですよね。普段はケイシーも普通の人だったと思います。ケイシーの顔をみたら分かりますよ。全天下に神の力を示したり、勇気凛々の豪傑ではないですよね。善良な一(いち)キリスト教徒の顔をしています。それがいったん自分のチャンネルを切り替え、アンテナを霊的な世界に向けた瞬間、神の声を聴き、宇宙の電波を受け取ることができたわけですよね。そういうものを持っていた人でしたよね。彼が凄いのではなく、彼の中に入った神の霊、大宇宙の波長がすごいのです。
青木先生とケイシーとの出逢いは、クリスチャンだった頃ですか?たま出版の瓜谷元社長と親しかった頃ですか? 
30代の終わり頃、私はバグワン・シュリ・ラジニーシを読んで、自分と近い人だなと思っていました。その頃の私はまるっきりキリスト教の人間で、キリスト教以外は認めないというようなところがあったので、瓜谷社長と親しくなったあとにケイシーに触れたのだったら40代かもしれませんね。ジナ・サーミナラさんが詳しくお書きになられていますが、私はその前の『奇蹟の人 エドガー・ケイシーの生涯』を読んですごい人がいるもんだと思ってました。

精神的におかしくなった人の原因が親知らずの歯が神経を圧迫していただけだというので歯を抜いたら良くなったとか、生のアーモンドを毎日数粒食べるとか、ウサギの生皮を剥いで腹部に当てるとかすると免疫力が上がるとか、へぇと思っていました。ケイシーは存命中、識者に嘲笑されたそうですが、現代医学では正しいものとされていますものね。

ああいう人は人類を救うために何百年かに1人、ポコンぽこんと出てくるんじゃないですかね。
そうはいっても青木先生も不思議体験は山のようにお持ちで、例えば現実には2度しか会ってない武道の師匠から、夢の中で何度もご指導を受けられたとか、目の前で小人(こびと)が武道をし始めたのでそれをメモして新しい武道の型を作られたとか・・・。
それは小人ではなく、何となくボーっとしていると、いきなり向こうから人が棒を持って攻撃して来る幻想が起きたんです。そして「あっ!」と思った瞬間、自分の中からも一人飛び出したんです。そして見たこともない技でその相手を投げ飛ばし始めた…。
それは現実世界ではなく幻想世界の人ですよね…?
幻想です。でもその幻想が見える。世界の大抵の棒の投げ技を知っている私でも見たことがない技ばかりでした。何本か見ているうちに『こりゃ記録しなくっちゃ』と。何週間かかけて75種類の棒の投げ技をイラストで描きました。それを皆に教えだしたんですが、25本は難しすぎたので、50本を新体道棒術の中に制定したんです。今、みんなやってますよ。あれは私の創造ではなく、霊的に見せていただいた技です。だから厳密に言えば、私は創始者ではなく、神業というか、何か偉大なる者に見せていただいた技の紹介者です。ただ説明するのが面倒なので創始者ということにしていますが、本心では創始したとは考えていません。
青木先生だったら理解できるだろうと、神様が宇宙から技を降ろして下さったんですかね。夢で教えられた技の話も不思議です。
井上方軒先生の話ですね。井上先生は私の師匠の師匠ですが、教わったことは無いんです。生涯に直に井上先生にお会いしたのは2回だけ。1回目は25歳頃のことで、原宿駅のそばに大きな道場があって、そこで先生が稽古されていたのを拝見しました。

先生が道場を斜めに横切っただけで飛びかかる人がバタバタと倒れていく。魔法に見えました。スゲー、この人は何なんだと思ってビックリしました。触れたか触れないかで人が倒れていくわけですから。私の先輩に「あの人は凄いですね、神業ですね」と言ったら彼に「そんなことはないですよ、青木先生の後輩や会員が青木先生を見たらやはり神業に見えますよ。レベルの問題でもう少し慣れてみたら、いろんな技をかけているのが見えるようになります」と言われたんです。

それから何年も一所懸命稽古をして来ましたから、井上先生が触れたか触れないかでみんなが吹っ飛んでいったように見えたものが少しずつ何をしておられるのかが分かるようになりました。

でも井上方軒先生は、私が孫弟子だからということではなく、大名人ですよ。彼の叔父にあたる植芝盛平も大名人ですよね。我々から見たら井上方軒先生と植芝盛平先生がやっていることはほとんど同じです。でもご本人たちからすると全然違うと。それはしょうがないですよね、本人たちはその違いが分かるんですから。そっくりな形をしているけれども思想的には違うと言えるかもしれません。いずれにしても武道の中では、井上先生と植芝先生は同じ合気柔術の系統に入ります。

哲学に喩えるなら、100人の哲学者はまとめて全部哲学ですが、1人1人をみると全く違う哲学を持っていると言えますよね。音楽家も画家でもそうですね。だからお二人は同じとも言えるし違うとも言えます。絵画という造形芸術の中の古典派とか印象派などという位の違いでしょう。ですから、一般人には全く同じに見える程非常に近いことは確かです。体技の中の武術部門であり、武術部門の中の素手格闘技、素手体術であり、お二人ともその中の合気柔術なのですから。

現在私は居合い抜刀術(剣武天真流)で刀ばかり振り回しています。刀は本当にいろいろなことを教えてくれるからです。でも基本的な動きは新体道も合気術も棒術も今の剣術もみんな全く同じなのです。
その井上先生は青木先生の夢にしばしば登場されて、技をご指導下さったと。
瞑想していると、時々あらわれて『それでいい』とか『こうすればいい』と教えてくれました。その時私は江上茂先生に師事していました。江上先生には毎日指導を受けていたんです。ところが瞑想をしていると井上先生が出ていらっしゃいました。

私の家のすぐ近くに起伏が豊かな野毛山公園という公園があって、私は真夜中一人木立の中に立って、木刀を正眼につけていました。つまりまっすぐ前に構えるんですね。剣先を目の高さにして遙かかなたの、例えば1キロ2キロ先の街灯を目標にして1時間くらい微動だにしないで立つわけです。そういうことをやっていたあるとき、井上先生に教えてもらいたいと(幻想のなかで)一度井上先生を呼び出したことがあるんです。そしたら井上先生が現れてくれたんです。それでいろいろ指導を受けているうちに、おまえにはもっといい師匠がいるから紹介してやると。そして、なんのことはないパッと江上先生が出てきたんです。つまり今の江上先生について一所懸命やっていけばいいんだよと知らされました。自分はこのまま、ますます追求していけばいいことが分かったんです。

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