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  3. 第14回「人間は生まれたときは100%自然なのに、意識が身体を不自然にしてしまっているんです。それをほぐしていかなければいけません。」

第14回
そうしたら何のことはない十牛図の8番目に『人牛倶忘』というのがあるんです。人牛ともに無くなった無の世界です。何もない…。そして次に何と『返本還源』。花盛りの絵、唯自然のみという世界です。そして最後の10番目はその牛飼いの少年が布袋さんとお話しているんですよ。これには2つ意味があると思っています。布袋さんになりなさいというのと『あなたは布袋さんになったんだから、民衆の方に行きなさい』というのと。

つまり出家するか民衆の中に入るか。私は出家の道しかないと思っていたところ、苦しくてしょうがなくて、廻りも見えなくなってしまいました。そこで祭壇を見上げるのでなく、祭壇の十字架や仏像を背負って後ろを見た瞬間に民衆がハッキリ見えました。そしてこれこそ私がこれから進むべき道だと感じました。だからいま、私は10番目の民衆の中にいるんです。ちなみに十牛図を描いたのは千年くらい前の禅僧廓庵(かくあん)です。偉い僧侶がいたものです。

皆さんに知っていただきたいのは、何も悟ったりしていなくても、民衆の中に入り、民衆と共に生き、民衆を助けて生きる人は最高の悟りを開いた人と同じだということです。

十牛図
8番目の人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)の図 - すべてが忘れ去られ、無に帰一すること。悟りを得た修行者も特別な存在ではなく本来の自然な姿に気づく
9番目の返本還源(へんぽんげんげん)の図 - 原初の自然の美しさがあらわれてくること。真の悟りはこのような自然の中にあることを表す。
10番目の入鄽垂手(にってんすいしゅ) の図- まちへ... 悟りを得た修行者(童子から布袋和尚の姿になっている)が街へ出て、別の童子と遊ぶ姿を描き、人を助け導くことを表す。

Wikipediaより

かつて若き日に8番目の世界に入ったというか、その世界に出たというか、その時ははっきり分かりました。技がガラっと変わってしまったのです。相手を軽く押さえただけでもアザが出来る、稽古着に軽く(手が)かすったくらいなのに稽古着が切れてしまう、木の枝にパッと(手を)伸ばすと木の枝がパラパラと落ちてくる、そういった現象が起き出したんです。もう大昔の話ですが。

そのように無の世界の凄さを感じました。最初は自分は間違えたところに入ってしまったと思って、一所懸命出ようとしていたんです。キリスト教ではそういった過程を教えられていませんでしたから。でも禅にはそういった過程があったんです。人間の心の成長というものをキチッと体系づけて、教育カリキュラムのようなものが臨済宗には確立されとっくに伝わっていました。もっとも荒井献氏の『トマスの預言書』をよく注意して読むと、ちゃんと書かれているのですが。

無の世界へと脱け出したのは31歳の時でした。そこから花咲く美しい世界へと転位したのは76歳の終わりです。そしてさらに市井の中に入ってその中でみんなとゴチャゴチャになって生きて行こうと決心したのは77歳半の時です。

そのたびに技が変わるんですよ。ますます力を使わない、不思議な技がたくさん生まれました。心が変わると技は変わるんです。

もう1度稽古の技の話に戻りましょう。頓悟(とんご)という言葉がありますが、20代、30代の頃、新体道でスピリチュアルにも肉体的にも高まっていき、本当に心も身体もきれいになってほぐれていき、一瞬にして昇華する、解脱する、そんなふうになれないかなとずっと思っていたんです。何十年も稽古をし続けなくても一瞬でそうなれないかとずっと思っていました。

*頓悟:長期の修行を経ないで、一足とびに悟りを開くこと。仏教用語。

そう思ってやっているうちに『組み手』といって、あるやり方で相手と組んで投げているうちに、相手の身体が凄まじい早さで動き出したのです。そしてその激しい動きが頂点に達した時、いきなり終焉になり、そして解放されきった状態になりました。動きは全てなくなり、ただ恍惚として陶酔しきったような状態になるのです。そんなときにはそっと寝かしてやるんですけど、顔は仏さんのような顔になっています。本当にきれいな顔になります。

あの白黒の動画は砂浜でやっていたでしょう?そこまで行ったら寝かして、次ぎの人も高まりきったら寝かして、とやっていると、次々と砂浜で寝てしまって、気持ちいい、気持ちいいと言っている。みんな自らを束縛していた何かから解放されるんですね。もちろん武道に限らずどんな運動でも激しい練習のあと、大地に大の字になって寝そべれば似たようなことが起きます。

人間は頂点まで行くとパッと解放される瞬間があるんですね。それを何度も何度もやっていると、すぐに頂点に達するようになるんですね。上手い人と組んでやっていると、彼らはわずか20秒か30秒で頂点に行ってしまいますよ。下手な人や心の固い人はいくらやってもなかなかそういう域には達しません。

人間の身体って面白いもので、ランニングハイでも武道でも殴り合いでも、パッと抜けて解放される段階があるんです。それをもっと簡単に誰にでも出来るように体系づけたのが『瞑想組手』なんです。
『わかめ体操』ですか。
『わかめ体操』と『ひかり体操』です。『わかめ体操』だけよりも相手もこちらへ働きかけて来たほうがいいんですね。来るのが『ひかり体操』、やってもらうのが『わかめ体操』。引きと押しで対極にあるその両方をするのがいい。

*わかめ体操

私が39歳のとき、『わかめ体操』『ひかり体操』の瞑想組手をやっているとき、イギリス人の女性会員が一瞬で高まって解脱した状態になったんです。技をかけ始めてほんの10秒か20秒で、です。え?っと思っていたら、その次の別のイギリス人女性も一瞬でそうなってしまいました。出来た~っと思ったんです。10年も20年も求めてきたものが出来た~っと思ったんです。でもその瞬間、私は全部が終わってしまった。それまで積み上げてきたものが一挙に壊れていく、崩れて燃え尽きてしまったんですね。39歳になったばかりの頃です。

難攻不落の女性を口説いて口説いて、ようやく相手の女性が受け入れてくれて「あなたと結婚してもいいわ」と言われた瞬間にヘナヘナとなってしまって恋が冷めてしまった感じです(笑)。つまり自分が求めていた頂点に行ったら力が抜けてしまって燃え尽きちゃったんですね。生涯エベレストに登ることだけを考えて生きてきた人が、頂上に登ってしまったようなものです。芥川龍之介も『いも粥』でそんなことを書いています。

今は何でもないようにこうやって話ができますけど、あの頃は辛くて、御用聞きの人が来ても怖くて顔を出せなかった。それくらい心が疲れ切ってしまって・・・。自分でも何が起きたか分からなかったんです。今でいうと重症の燃え尽き症候群ですが、当時はそんな言葉は知られていませんでした。それがもう何年も続き、自信がないし、人にも会えなくて困ってしまいました。

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